組織的な創造について

個の創造性について

何が創造性を生むのだろうか?強制や、痛みというのは抑止はするが創造性は生まれない。人間はhomeではなくAwayだと思っている間は、IQが下がり、考えるのよりも回避行動や反撃行動といった部分に向いてしまうようだ。なので、少なくともその場は、homeとみなせるような状況でないと、創造性は生まれない。

組織の創造性について

組織とはなんだろうか?組織とは、継続した複数の人が集まって相互干渉を行う場である、それは我々という意識を持てば、まるで個体のように動き、考え、活動を行う。優れた組織は相乗効果によって、個別の活動の総和以上の成果を出すことができる。但し、デメリットもあり、組織上では個の意見や能力といったものは、個よりも組織が優先される。つまり、個性的な部分ややりたいことといった部分はある程度、つぶされることになる。

そういった前提での組織の創造性とは、何であろうか?それはある程度の流動性だろうか?流動を行うことが出来れば、人の組み合わせで新しい化学反応が起きるかもしれない。それとも、組織をなるべく柔らかくすることで、個々のやりたいことを反映させることだろうか?

オープンなルールと創造性のフィルタリング

許容されることで創造性が生まれ、組織そのものを繁栄させていくためのベクトルであればいいが、そうでないことも多い。次は、アイディアや創造性のフィルタリングが必要になる。そのためのオープンなルールによって、よりよいものを考えた、作った人が評価される仕組みを整備剃る必要が出てくる。

そして、その時に問題点として上がるのは、ビジネスモデルの構築だったり、長期的な戦略だったりする。ただ無軌道に、新しいものを出していくだけでは、意味が無いのだ。それはただのノイズでしか無い。組織全体として進んでいく方向を定めながら、ある程度の範囲に絞りながら、成長方向を模索する形となる。

そして、実際に仮定やアイディアを出してみて、実行してフィードバックを得ることが一番重要である。ほとんどの新しいことというのは、「評価が出来ない」のである。これは誰がなんと言おうと、わからないのだ。役員の7割に反対されたら、そのプロジェクトはちょうどいいくらいだという言葉があるくらい、人は新しいものを正しく評価出来ない。

だから、新しいものというのは、それに対して投資を行うのだという認識が必要になる。そして儲からないかも知れないところに投資することができるのは、現在の基盤のお陰なのだ。だから、現在の基盤を守り成長させながら、新しい場所にも投資が必要になる。

創造性のあるチーム

次は組織と言っても数人レベルのチームの動きを見てみよう。

組織と比べてチームというのは、個々の能力の反映がとても大きい。そのチームのスペックは殆ど構成人員に依存する。アイディアは、精錬をしなければ、ビジネスとして耐えられるような構造にはならない、それには、アイディアの作成と、アイディアの評価、アイディアの実装と少なくとも3つの力が必要となる。それから先にもたくさんの力が必要ではあるが、ミニマムで必要な物はこの3つだろう。

チームとは、構成する人ではあるが、人単体ではない。それは構成した人を反映して個性を持ち、別のものになるのだ。

なぜ、一人では創造し得なかったことが、チームだとできるようになるのか?それは、アイディアの連鎖であり、複数の視点であり、複数のフィルタリングのお陰だろう。この構造を最大化するためにはどうしたらいいのだろうか?

今考えている最中で答えがまだ見つかっていない。

意識とはゲーム理論の解答者ではないか?

意識は何のために生まれたのか?

意識とは何なのか?意識は何のために生まれたのか?私は、人間間の相互作用問題を解くためだと思う。人間関係だったり、相手の裏をかいたりするためだ。そのような理論が実は存在して、それは「ゲーム理論」と呼ばれている。

ゲーム理論

ゲーム理論(ゲームりろん、theory of games)とは、「ある特定の条件下において、お互いに影響を与え合う複数の主体の間で生じる戦略的な相互関係」を研究する数学、経済学の一分野である。

有名なものは「囚人のジレンマ」だろうか。二人の囚人が相手を裏切って自供をするという相互作用のジレンマだ。

シミュレーターの中の私

意識は、相手が何を考えているのかをシミュレーションする仕組みなのだろうと私は想像する。自分と同じようにあいても考えているということを相手の立場に則って想像するのだ。なので自分自身の気持ちがわからないと、そもそも相手の気持もわからないということになる。だから、自らの気持ちを単純化したモデルとして、この単純モデルを意識だと認識しているのだと私は思う。

つまり、意識とはシミュレーターの中の「私」なのだろう。多くの実験が意識はハリボテであることを示唆している。意識の決断する0.3秒前に既に無意識化で決断が行われている。瞬きを感じないように、シームレスに意識の時間感覚を遅くして、瞬きを感じなくしている。痛みが見ている瞬間に痛くなるように、脳内のラグを調整しているなどという数多くの実験結果がある。

なので私は意識は、他人シミュレーターでシミュレートしている自分版なのだろうと想像する。だから、人間間の相互問題が発生しなければ、意識を発生させる必要が無いのだと思う。私はそんな感じだった。自分は考えているし思っているし、存在していると思っているけれど、他人の気持ちなんてさっぱりわからないし、意志は無く、行き当たりばったりで面白がる方向に進むだけだった。意識が必要になったのは、人生の上であまりに理不尽で傲慢で人間を人間だと思っていないような人間とぶつかった時である。私は、寝ても覚めても考え続け、怒りに狂い、感情が爆発し、それを1年ほどやっていたところ、気がつくと自分が今までよりも自由が効くようになっていた。

それは、自分が戦略を組み、そのとおりに実行して、成果を上げられるようになったのである。それは、他人は普通はこう考えるだろう。だから私はその逆を実行して出しぬいてやろうというような、他人を意識した思考形態が生まれたためである。それまでは、自分を上手くコントロールできていなかった。何かを始めれば3日坊主で何も出来なかったのだ。

意識としての発展形

私は幸運なことに、意識して意識を獲得したので、ある程度の仕組みと形を知ることができた。意識が脳内の聖域ではなく単純にシミュレーターであることに気がついたので、発展形を構築しようと考えた。その結果、2つくらいのある程度の形になったものがある。

組織格

これは、人格の発展形で、組織が「何を感じて何を考えているのか?」をシミュレーションしたものだ。簡単に言うと、「他人の事を本当に考えて」の組織版である。簡単な話だができている人は少ない。「自分の事」しか考えないで、文句をいう人は、他の人のことも、組織のことも考えていない。これは大仰な名前を付けなくても、リーダーを体験したことがあれば、自然に身につくものだろう。自分が組織のトップだと思って行動するだけだ。

強い意識

意識の発展形。問題解決者の次の形体である。目的創造者。ゲームのルールそのものを作る考え方だ。自分や他人が、どのように目標を立てれば、自分の意図した形に落とし込めるのかを考え、情報を拡散する。これもよく出来るリーダーならできるのだろう。それ以前は、ゲームのプレイヤーとしてのハイスコアを狙っていたのを、ゲームそのものの胴元となることで勝利を狙うようになった。

意識の存在価値

意識を活用することで、無意識に反応だけで生きている人生を、自分から積極的に変える事ができるようになる。これが物凄く楽しいのだ。自分が無力ではなく、能力を持って解決に導けることが物凄く楽しい。解決者を超えて、ゲームマスターとしてゲームを構築することで、ひとつの場を形成することもできるようになる。

自分で自分の人生を創造することができるようになり、やりたいこと、なりたいことは、計画、戦略、他人を巻き込む(お互いにメリットがあるところに落とす)ことで意図して、物事を成すことができる。自分自身を自分でマネジメントし、意図通り、それ以上にうまくいくようになった。良いものだと思うので、どうにかして周りの人にも伝えられるといいなと考えている。

意識レベルと戦略戦術

今から酷いことを書くつもりだ。わかっている人には頷いてもらえると思う。

仕事が出来るとは

仕事が出来る人というのはどんな人なのだろうか?どんな人が仕事が出来るのだろうか?私はプログラマーだから、プログラマーで例えるが、技術がある人だろうか、きちんと仕様に通りに作れる人だろうか?私は、成果が出せる人だと思う。答えを見てそりゃそうだと思っただろうか?これは別に頓智ではない。これはちょっといいことを言ったわけでもない。仕事というのはタスクと、そのタスクを決定することに分離することができる。プログラマーなら、「プログラム作業」と「どんなプログラムを作るのか決定すること」だ。

プログラム作業が上手い人が、良いプログラマーかと言われると、確かにそうなんだろう。ただ、仕事が出来る人かと言われると、「わからない」というのが正解だろう。それは良い作業者であろう、でも仕事が出来るかどうかは、何を作ってどんな成果を出したのかで判定される。良いプログラムを書いた人が、凄い成果を出せるという単純な構造であれば、世の中は簡単だ。でも現実は、その力をどちらに向かって使ったのかで、成果は全部変わってしまう。

みんなできるならば、強い力(単純な意味ではなく)が欲しいだろう。よりよい能力やスキルや技術が欲しいだろう。そしてそれが手に入れば、富や名声や成果が上がるのだと思っているのかもしれない。昔の私はそういう考えだった。しかし、世の中はそうできていないように見える。

凄い技術者が、成果を出してる?違う、成果を出している技術者が凄いんだ。成果が評価を決める。成果は何で決まるか、どういう戦いをするのかだ。どういう戦略を持って、どういう戦術で戦うかだ。それが「どんなプログラムを作るのか決定すること」だ。

戦略戦術とは

学校では全く触れられないこの戦略や戦術を組むということ。これは、自分の持っている力をどのように運用すれば、一番目的に沿った形で展開できるかを考えることだ。これは、殆ど「意識を主体的に運用できるかどうか」と同じ事だと思う。

意識と戦略戦術のどこがつながっているんだという風に思うことだろう。そもそも意識とは何であるのか?毎日ランチで何を食べるのか決める?CMを見てあれが欲しいと考える?意識が高いとはなんだ?それっぽい本をこれ見よがしに読んでみたり、大きな声で議論して論破することか?

意識とは、無意識での解決の出来なかった問題の解決者なのだと私は思う。意識がなければ解決できない問題があるのだ。それは作業では解決出来ず、リソースは足りず、現状では解決ができないものだ。例えば戦争、やりを突き出すことを繰り返していれば敵に勝てるだろうか?私なら罠や卑怯な手を使って安全に倒そうと画策するだろう。何も考えずにまっすぐ突き進んでくれる敵は、格好の餌食だ。

意識とは、自分のことを考えるのではなく、他人がどう考えるだろうかを考えるために発生したのだろう。同等の思考能力があれば、2手3手と相手の裏をかこうと画策するだろう。なぜそうするのか、負けると死ぬからだ。なぜ、意識が生まれたのか?相手の考えていることを考え無いと死ぬからだ。

自我の芽生え

逆説的に、意識ができることで意識は私というものを自覚した。反抗期に親に反抗することで初めて、自分の自我というものに気がついたり、相手の存在を認めることで恋をしたりするのもその成長過程の一つなのだろう。私というものは、実は近代的な発明だったりするのだ。サルから人間になる途中で、急に意識を持ったのではなく、その途中の段階も当然あった。

意識は獲得するものだ。意識は成長する。ならば、意識の次のレベルとは何なのだろう。意識は、0と1である無いだけで言い切れる存在ではないのだろう。私は意識が非常に興味深いので、考えそして成長した結果としてこれならというレベリングを考えた。しかし、このレベリングは非情である。

意識レベル 状態 特記事項 大人での割合
レベル0 意識以前 子供 15%
レベル1 自我の形成 普通の人 82%
レベル2 主体性の発揮 有能な人、解決者、感情の管理 3%
レベル3 組織型記述、未来型記述 強い意識、目的創造者、経営者等 0.1%

このレベル付けは、殆ど覆すことができないほど能力の差を分けてしまう。そしてこのレベルを2以上に上がってくる人は稀にしかいないと思っている。思っているというか、今のところ残念ながら殆どレベルを登ってくる人間はいない。もしかしたら、私のしらない所ではバリバリレベルが上がっている組織や、地域や場所があるのかもしれないけども。

意識レベルの上げ方

これはほんとうに難しいと思う。簡単なのは、死にそうになることだろう。自分の死を考えること、自分の生を考えることと同じだ。私の場合の起点はそこだったと思う。

私は何なのか?私の意味は、意義は、人生とは何なのか?これらに物理的に記載された答えはない。生命だから、生きて次世代を残すくらいだろう。でも我々は、それだけでは満足出来ない。私が何なのか?生きている意味はあるのか?もしあの選択肢を選んだら死んでいた、今生きているのはただの偶然だ。この選択肢に意味はあったのか?私の命に意味はあったのか?

私に意味などは、特に無い。基本的には、1/60億の人間だ。日本に生まれたから運が良かった。もう少し前に生まれたら、もう少し良かった。私が戦争に行かないのはたまたま今の時期の日本に生まれたからなだけで、ただ運がいいだけだ。全てはたまたまで、私の努力なんてなんの意味も無いし、ほとんどが偶然の賜だ。

私には意味など無い。

自分が自分であるために動かないことには未来などなく、人生の多くを無意識で過ごし人生の最後の時にあれをすればよかったと後悔するだけだ。誰のためにも貢献して感謝されることなく、ただ日常を過ごして終わるだけだと悟った時から私はちょっとだけ変わった。誰かを助けられるくらいの力を持とうと思ったのだ。

この状態を味わってもらえれば、引きずり上げることができるのではないかと思ったりしている。周りにいる人はよくよく気を付けないと巻き込まれるので注意して欲しい。

意識レベルのもっと上

多分、この上にもレベルはあるのだと思う。同じレベル同士がぶつかれば必然的に次のレベルが生まれる。1000年後にはこんなことは初学で学んでるかもしれないと思うくらい、基本になっているのかもしれない。今の意識が普通に皆持っているものと思われれいるのと同じくらい。

そんな訳で、もっと上を探索していきたい。

個の拡張としての場、場としての人格

すごく久々に書くような気がする。メモ、走り書き。

私という存在は、物理的な私を外殻として認識構成していたのだけれど、別の捉え方として、私はこの私という存在を取り巻く認識そのもののゲシュタルトであるという発想がにょろっと出てきた。

そんなわけで、そこからの発展系をちょっと探索してみた。結果としては、この先に待っているのは、あくまでも派生系であって、現状からの発展形には至らなそうだということ。そして、この自己を現状の認識ゲシュタルトとして認識するのは、おそらく外交的な性格と呼ばれるカテゴリーの人格なんだろうなということ。

もう、さっぱり説明をすっとばすけどそういう結論が出てきた。それなりに正しそうな気はするけど、よくわからない。

そして、伝えるために書いてないからさっぱり意味が分からないだろうなと読み返して思った。まぁ、備忘録。