私たちは違う世界を生きている

自分という世界

普通の人は、自分たちは同じ世界に生きていると考えている、または無意識にそう思っているのだろう。でも、それは間違いだ。私たちの生きている世界は、自分の無意識の投影された世界だ。

考え方の違い、ルールの違い、見えているものの違い、そのようなレベルではない。文字どおり違う世界なのだ。それはインターネットなどで、情報のみで交流してみるとよくわかる。あなたの見えている世界は、他の人に見える世界とは違う世界だ。

ローカル世界:自分

まず、自分というのは、外の世界からの反応を正しく受け取ることができない。必ず、解釈というものが間に挟まる。恋は盲目というが、必ずあれと同じものが間に挟まっている。それを薄くすることはできても、排することはできない。何しろ、それが自分と世界の境界であり、自分の限界であり、自分というものそのものなのだから。

自分の中の認識はローカルだ。自分が正しい、自分は解っているという認識ほど、自分の認識を一般から歪めてしまう認識はない。それは、盲信的な信者を見てみればよくわかる。自分を客観視できなくなるほどに、歪めてしまう。まぁ、客観的という概念ほど、客観的でないものもないのだが。

それの盲信的な見え方は、正しくないと言われるかもしれない。でも、彼らにとっては確かにそのように見えるのだ。そして、世界のルールさえも自分の都合で歪めてしまう。そう、それは自分の見えるローカルな世界であるから。確かに、あなたの世界はそのようなルールで動いている。私の世界とは違うというだけだ。

マイルール

あの人は、何でこんなに自分と違うのだろうかと思うような人と出会ったことはないだろうか?それは例えばとても幸せそうな人、頭のいい人、運のいい人などだ。なぜ、違うのか。それは生きている世界が違うからだ。

そして、その違う世界を映しているのは無意識だ。要するに、外側の環境だと思っていたものは、実は自分自身の歪みだったりするのだ。だから、自分自身の無意識に働きかけることで問題のほとんどは解決してしまう。そして、それは自分自身の制限を解き放ち、成長することができる。そして、歪みのない世界、より輝いて見える世界を見ることができる。

あなたが、この世界は腐っていると思うのなら、腐っているのはあなただ。素晴らしいと思うのなら、素晴らしいのはあなただ。要するに、あなたの世界の評価ほど、あなた自身を如実に表すものはない。

ということを、特定の他人に向かって説教として言うようなことほど、無責任なこともないのだが。

世界との帯域

あなたは、どれくらいの帯域を物理的な世界と持っているだろうか。物理レイヤーの世界は、実はただの通信手段でしかない。光ファイバーと同じ、電話線と同じだ。物理レイヤーと通信する手段とは、食べること、寝ること、見ること、聞くこと、話すことなど、受信と送信するものがある。まぁ、簡単に言えば生きることだ。

それを受け入れる、または送信することが多ければ多いほど、帯域は増える。逆に何もしないというような生き方は、帯域を狭めてしまう。帯域は増えれば増えるほど、充実感があるはずだ。まぁ、限界もあるだろうが。あなたがつまらないというのなら、積極的に世界に出て行って、帯域を増やせばいいだけだ。