GoogleとYahooのシェアと無意味な憤り

なぜだ?

人力検索はてな - ぼくは検索するときGoogleをよく使います。シンプルで探しやすいと感じるからです。Yahoo!等はあんまし使いません。でも日本ではYahoo!の方がシェアがあるそうです(下記ソース参照)。みなさんなぜだと思いますか?特に普段Yahoo!を使ってる人の意見を聞きたいです。

こんな質問があった。
日本では、グーグルよりもヤフーの方がシェアが高い。それは、アジアでは同じような傾向が見られるが、欧米では全く逆の傾向が強い。それは知っている。

しかし、回答を見るうちになぜか自分は憤りを感じてしょうがない。なんだ!この感情は。

グーグルは素直に尊敬している。使いやすいと思うし、革新するような姿勢が好きだ。
しかし、ヤフーはあまり好きではない。それはなぜか。普段テレビを見ない自分は、CMが嫌いだ。無理やりそのモノに好感を持たせようとする、心の動きを誘発するような仕組みが嫌いだ。

自分の考えは自分のものだ。それに無理やり割り込み、あまつさえ権限さえ譲り渡してしまうようなものが嫌いだ。
そう、ヤフーはそのような印象を受ける。だから、好みではない。だから、普段使わない。

でも、普通の人はテレビを見るし、ヤフーを使う。流行には乗るし、マスメディアの思い通りだ。流行のための流行を作り続けるマスメディアとそれを、素直に受け取る人々。なるほど、いかにもそれこそ日本と言える。みんな右に倣え。

なにか、もやもやする。いらない暴言も吐いてしまいたくなる。なんだろうこれは?

悔しさ

ああ、そうだ。これは悔しいんだ。そう、悔しい。別に自分の考えが他の人と違うからとか、そういう理由じゃない。会議で革新的なアイディアを言ったとき、それは感じる。「確かにそれは素晴らしい。でも、今までと違いすぎる」

違うからって、何だというんだ。素晴らしいものは素晴らしい。それを認めないのは、ただの保守。自分を守りたいだけじゃないのか?否定することで優位に立てると思っているのか?なんだよ、変えられないなら、最初に言っておいてくれよ。本気で考えた俺がバカみたいじゃないか。

悲しい。今までと違うという理由だけで、はじかれるのが悔しい。変わることを恐れる人たちが、大勢であることが悲しい。そして、それをどんな手段でもいいから説得できない自分の力の無さ加減が悲しい。

「変える」ということ

自分は変えることが役割だと思っている。同じことを続けることに価値はないと思う。そう、飽きっぽいだけ。でも、変えるからには全身全霊でよりよいものを考える。そして、今以上によいものを思いつけば、それを変えればいいと思う。でもそれは普通ではない。

変えることにはコストがかかる。明らかによいものだって、変える為のコストを考えると短期的にはトントンだったりする。そうすると、みんなは必ず、変わらないことを選ぶ。ああ、そうだ。俺は変わっている。

自分は、なかなか認められない。話の分からないやつほど、なぜか声がでかかったりする。あんな、論理でもなんでもない、ただの感情論に、自分の革新的な案は無残にも破れ去る。悲しい。悔しい。無力だ。

変わるという価値観

欧米の人は変わることを認めてくれると思う。日本人は、相当の利点がなければ変わることを選ばない。または、欧米から流れてきたものをありがたがる。マスメディアに流された流行に乗って。そんな日本が悲しい。悔しい。

素晴らしいものは素晴らしいのに、保守というだけの集団にどれだけ潰されてきたのだろうか。それで変わった日本と変わらなかった日本は、今どれくらいの差があるのだろうか?それを思うと悲しい。

ようやく、独創的という価値観が認められてきたような気がする。しかし、現実ではまだこんなもの。なにも、変えることができない。自分は無力だ。

だからこそ、本当に革新であり続ける

だから、自分は本当に力をつけたい。ほかの人が否定できないくらい、力を持ちたい。自分は生涯自分を変え続ける。自分は、無力な自分を変える。