神風を操る魔法の国と匿名という仮想防壁

空気という結界魔法

「空気を読め」という言葉がある。これは恐らく日本だけで伝わるニュアンスだろう。空気というのは場に留まる。場の属性として、場を保存するような力学が働く。それも、直接働きかけることなく。それは他の国の人から見れば、魔法のように見えるだろう。

魔法のように見えるのは、空気という間接的な心的な場を介することで、直接働きかけることなく、力を加えることができるのである。でも、それが働くのは空気を読める人だけだ。だから、魔法を使えるのは日本人、効果があるのも日本人ということになる。

積極的に空気を読んで外交しても、外国には全く意味がないどころか、ただうまく利用されてしまうというのが実情だ。

射程距離と戦力

直接話す、直接なぐり合うというのは戦う人の性能が同じならば、戦力数比に比例する。これは一人がほぼ一対一でしか、対応できないからだ。これはランチェスターの法則と言われ、戦争の時の戦い方の法則だったが、今ではもっぱらマーケティングに使用されている。

これは、直接しか攻撃できない時の法則だが、間接攻撃できるときは違う。間接攻撃ができる時は戦力数の2乗に比例する。これは例えば、同じ条件で間接武器を持った人たちが1:2の人数比だったら、戦力は1:4になるという話だ。間接武器は、何人でも1人を倒すことができるのと、遠く離れているので、攻撃自体受けることが少ない。だから、戦力差は数の2乗に比例するということだ。

そして、人数差がある戦いを挑むときは、少人数側であれば、総力戦を避け、ゲリラ的に一対一、またはそれ以上になるように戦う。
大人数側であれば、総力戦に持ち込み、圧倒的な間接火力で焼き払えばいい。

WEBにおける、日本独自の匿名性

なぜ、日本では匿名が標準なのか。それは「空気という結界魔法」が存在するからだ。マジョリティとマイノリティにおける戦いで、空気は間接的にしかも匿名で攻撃できる。これは間接的な攻撃であるので、数の2乗で戦力差が決まる。よって、マジョリティとマイノリティは圧倒的な戦力差ですぐに勝負が決まる。これが、日本の保守であり、明文化されていないルールであり、右に倣えの日本人であり、ブームの過熱の速さと廃れるのの速さの正体だ。これが空気システムの恐ろしいところであり、日本が日本的であり続ける理由だ。

空気は、ある程度の人数が集まれば、そこに心的な場として空気は存在する。それはWEBの世界にも当然適用される。2chでは「空気読め」という返しがよく使われるし、掲示板などでもよく見る。空気システムの恐ろしいところは攻撃側の匿名性である。誰が攻撃してるのかわからないのだ。その場の空気でそこは、居心地が良くなったり、毒沼の中にいるようにもなってしまう。

そして、WEBでの空気の力が自分が匿名であれば、例え攻撃されたとしても、現実の物理レイヤーにまで貫通しないですむ。だからこそ、日本では匿名が標準になっているのだろう。仮想防壁としての匿名性なのだ。

空気結界の進化

さて、昔は空気はあったがWEBはなかった。そして、今はある。空気はWEBというテクノロジーを手に入れた。そして、恐ろしいまでの兵器に進化してしまった。匿名という仮想防壁をまとい、圧倒的な火力で現実世界をなぎ払う、まるでピンポイント爆撃装置になってしまった。

それは炎上のような現象に見られる。正しい間違えているなんて関係ない。祭りとしての爆撃を楽しむモノとなってしまった。そう、おもしろければ、例え間違っていたとしてもいいのだ。匿名の仮面はそう思わせてしまう。みんなだってやっている。名前も出す必要がない。となれば、やることは決まっている。

情報レイヤーの法則

情報レイヤーでは、物理レイヤーと法則が違う。それは「論理的正しさ」よりも「面白さ」の方が、情報の価値が高いというところだ。正論は、面白くない。だから、おもしろくないという意味で間違っている。

それよりも、多少間違っていても面白さの方が情報の価値から言えば正しいのだ。誰にも読まれないものは、存在しないのと同じだ。

日本では、ブームの加速の速さ、熱しやすく冷めやすいという「利点」がある。これは、見方にもよるが、今の社会において圧倒的な利点と考えることができる。あと、明文化されていない故のおおらかさ、創造力というより、妄想力といっていいくらいの利点がある。

ただ、それを利点と見なさず、汚点と考え閉じてしまうというのが最近の風潮だ。これでは、何もない普通の国になってしまう。空気を読むのはいいが、ほかの国に右に倣えでは、自分の利点も失い、何の独自性もない国になってしまう。これはよくないと思う。

日本という文化を生き残すためには、ほかの国と違うという部分を受け入れなければならないのに、いらない外国の空気を読んでしまうせいで、利点が潰されてしまうのは何とも悲しいものがある。しかも、その状況すら理解できていない。

望んだ格差社会

日本は格差社会になることを望んだ。それは同じような質の人を大量に作れる代わりに、すごい尖った人を作れなかったからだ。それを、教育に求め、ゆとり教育などを導入した。でも、結果は散々といっていいだろう。なぜ、うまくいかないのか。それは「空気」があるからだ。空気は一人だけ飛び出すのを許さない。みんなが同じであるような場としての保存力が強力に働き続けるから、どんなことをしてもうまくいかないのだろう。

だったら、空気を壊そう。空気を壊せる、変えられる人を作ろうというのが、本当に日本は望んだものなのだ。でも、それ自体が空気システムの矛盾してしまうために、うまくいかないのは当然だ。

空気を読めない人達というのは、確かに作ることに成功した。それがオタクであり、ニートである。オタクは世間体に縛られず、じぶんの欲求に忠実であり続け、ニートは「快適な世の中を作る」という目標の素晴らしき成果だ。働かなくていいなんて、科学の勝利ともいえる素晴らしき成果じゃないか。別に推奨するわけでもないが。

革命者としてのオタク、ニート

彼らは革命者だ。オタクは、常識とか世間体を捨てて、欲求にアクセルを全開にすることを求めた。引きこもりのニート*1は、働くということを捨てて、情報の海に身を投げることを惜しまない。物理層につぎ込んでいた自分のリソースを全て情報層につぎ込むという恐ろしい暴挙をやってのけた。

なぜ、ニートが嫌われるのか、それは資本経済社会からの脱却と情報経済社会の到来を意味しているからだ。そういう意味では彼らは、先駆者とさえ言える。ただ、その未来が資本経済から見ると明るくなく、情報経済から見ると明るい。情報は、帯域を上げ、人間のリソースを自分たちに割かせようとする。

情報社会の衝撃は、実はIT化とかそんなブームではない。情報が、自分たちに都合のいいように物理レイヤーを作り変えているのだ。わかるだろうか、IT化の欲求は自分たちではなく、情報の欲求として考えることができる。

情報層への信頼性

web2.0は情報の自立化の一助となった。RSSで勝手にFEEDされ、動的に情報が広がっていくというのが本質なのだろう。そして、その「こちら」と「あちら」の差は、情報層への信頼性である。わかるだろうか、信頼するものがあちらに居る人ではなく、お金というものでもなく、情報そのものなのだ。

情報を信頼できない人は、いくらたっても「情報層」を胡散臭く見えてしまい、次の世界に行くことができない。そういう意味でも、オタクというのは非常に情報リテラシーが高く、普通のネットを批判するような人は、何も知らないひと、知る努力をしないひと、言ってしまえばDQNな訳だ。これが大手を振って言えないのは、まだマジョリティが「現実層」側に存在するからだ。でも、次の10年、20年後は違う。

一度オタクの側がマジョリティとなれば、オタクなどといって馬鹿にするものは居なくなり、自分たちが何もできないことを悔いる層となるだろう。逆にオタクは今でもそういう傾向はあるが、他称から、自称に変わるようになるのだろう。

*1:ここでのニートは引きこもりに近いニートを限定して使っている。もちろん、働かないだけという人もいる。ただ、まだ定義として成立していないのであえてこのように使った