正しいこと、愛すること、伝えること

正しいことを言うのは簡単

正しいことをただ言うのは簡単だ。「戦争をするな」とか「国が悪い」とか。まぁ、これは左翼の正しいな訳だが。そうでなくても「環境を守ろう」とか「クジラを食べるな」とか。昔の学生運動時代みたいに、みんなで集まってシュプレヒコール。俺たちは正しいんだ!ただしいことを言っている俺たちカッコいい!!と素晴らしい様相が広がる。

そんな人たちは目的が違う。正しいことを言うのは手段だ。何の?自分に酔うための。あの人たちが一度でも何か生産的なものを作ったことがあっただろうか?いや無い。

自分はそんな左翼集団の中にいたことがある*1。自分たちは正しいんだ!!でも、みんなやる気がない。ただしいことをしているのに、9割の人は心が離れている組織にいた。もう、制度が腐って崩壊していた。でも、回り続ける。回らなければ死んでしまうから。何が正しくて、間違っているのか解らなくなるような、半分洗脳に近いことをやる。みんな馬鹿にしているけど、その話を聞く前と前提条件が変わっていくことに気が付いていないのが一番怖い。

誰も学生運動をしなくなった。昔は学生運動がかっこよかった。今は違う。単純にかっこ悪い。「政府=悪」なんて単純な構造は、夢想にすぎない。それも正義が悪を作るという方式の。悪が正義を生むのではない。正義になりたいから、悪と決めつけるのだ。正義のヒーローはそれ以外の方法で、なることはできない。

正しさの硬さ

正しいなんて、強く思えば思えるほどそれは、虚構で塗り固められている。自分の中のバイアスがより、自分のバイアスを強化するような循環を始めてしまっている。組織、例えば宗教でも同じだ。回りとの隔絶が大きければ大きいほど、必死で自分たちを正しいで武装しなければ死んでしまう。だから、正しいで武装する。それは正しくないとしても。

正しいという武装は、すればするほど正しくなくなってしまう。それは、まず前提条件が違う。正しいは相対的なものだ。「どこからみて、どのような立場で見た時にそれは、あれよりも正しく見える」というのが正論としての正しさだ。それを絶対的なものとみなし、「正しさ」を前提として、理論展開されてしまっては、どうにも話ができない。

そう、あの集団の中では話ができなかった。自分の正しいと思うことを言ってみる。「それはそうだけど、〜なんだよ」ですべて流される。要するに話を聞いていない。話しあいができない。彼らの正しさは絶対的だ。ああ、警察は悪、政府は悪と言えばかっこいい時代は終わったというのに。

流動的な正しさ

それでは、正しい正しさとは何だろうか?

それは、正しく無さを内包している。正しい正しさというのは、ある意味一枚岩ではなくなる。色々な人がいるコミュニティのように、いろいろな意見があって、このような立場から見れば、こっちは正しく見えるというのが解っていることだ。だから、彼らはけして「硬い正しさ」を主張することはない。

間違った「正しさ」を求めるということは「自分の正しさ」を探すことだ。正しい「正しさ」を求めるということは「複数の正しい点」を探すことだ。もちろん、それは自分を超えて探す。

正しさに酔う人は、自分に酔う。要するに自己愛。そして、それは本質的に自分が嫌いということだ。「世界が間違っているから、自分が幸せでない」とこのような人たちは叫ぶ。でもそれは、けして自分を幸せにすることはない。それは動かそうとする質点が違うから。他人を動かして、自分の思い通りの世界を作ろうなんて、なんて都合がいいんだろう。

僕は言った。「そんなに政府が悪いなら、自分が首相になればいいじゃん。政府に貧しい人の支援を求めるなら、自分でバイトしてそのお金をあげればいいじゃん。」もちろん、言い訳して、自分がいかに正しいか、政府がいかに悪いかを語りだした。その人はそういう運動のために留年を繰り返ししていた。警察のお世話になったこともあったらしい。

言葉だけの正しさなんて、意味がない。もちろん、行動したとしても、それがデモだったり、署名だったり、そんなのに意味なんて力なんてほとんどない。その証拠に、廃れている。効果があったなら、まだみんなデモしているはずだ。効果はなかった。

正しいという幻想、いや願望

「自分が正しい」というのはただの願望だ。そう、それは、割と一般的ではある。だから、引っかかりやすい。そして、果てしなく意味のない時間とお金をそこに投入してしまう。自分の正しさを夢見て。

逆に利己的な行動は、みんなから咎められる。それは、自分勝手だという。でもそうなのだろうか。自分の願望を満たすというのは当たり前のことだ。お金が欲しい。彼女が欲しい。おいしい食べ物が欲しい。やりたいことは否定することではない。願望は肯定するものだ。

願望というのは「生きる」ということだ。欲求がなければ人は死んでしまう。欲求は「生きよう」とする人のシステムなのだ。それを否定してしまうと、何もかもがうまく回らなくなってしまう。願望を肯定したら、みんな好きなことをやって破滅するんじゃないかという人もいるだろう。それは確かにそうだ。でも、それは違う。人とうまくやっていくのも願望の一つだ。ひとは群れたい。だから、ある程度願望を肯定し続けて、基本的な部分を満たしてしまえば、より高度な欲求が満たしたくなる。最終的な欲求は自己実現だ。

逆に、欲求を肯定しないから、いつまでたっても低次元の欲求を満たしたくなるのだ。満たしたくなるとは満ちていないということだ。欲求は、否定すればより大きくなる。それはそのことによって、より供給が減るからだ。肯定してやれば、それは満たされる。満たされれば、飢える心配がない。だから、落ち着いてみんな仲良くなれる。

犯罪を犯す人は、満たされていない人だ。満たされていないから、それを法を破ってまでもやりたくなってしまう。それは禁止しているから、やりたくなる。愛されていないから、形だけでも愛されているという欲求をほかの欲求で満たそうとする。でも、それはほかの方法で満たす事なんてできやしない。他人に受け入れられて愛されなければ、自分を受け入れて愛することはできない。そういう意味で親は一番大切な学習を幼少時に行う。

しかし、自分を愛していない人は、子供の愛し方もわからない。依存としての関係しか築くことができない。自分を嫌いながら、ほかの人を愛しているとウソぶきながら生きるしかない。自分を愛していない人は、当然回りの人間を愛することはできない。愛しているふりなら、いくらでもできるけど。愛するということの意味がわからないのだ。知らないんだから、できるはずがない。

自分を削ってでも、相手を受け入れて愛する勇気があれば別だろうが。

自己という唯一の質点

何かを変えたいときは、自分を変えることだ。自分しか変えられる範囲はない。影響力が強いから、できると思う人はいるかもしれない。しかし、力を使えば使う人と使われた人が弱くなる。親は勉強しろと子供を叱る。これは親としての立場を行使したのだ。一時期、子供は勉強するかもしれない。しかし、それは一時的で、またサボりだす。だから叱る。一時期やる。サボる。叱る。回れば回るほど、うまくいかなくなっていくだろう。

それはなぜか?力を行使したからだ。そして力に依存してしまった。部下を怒鳴り付けて、やらせることは簡単だ。でもやればやるほど、部下は知らないところで、上司の悪口を言う。信頼は失われ、上司は仕事がうまくいかなくなる。だから、叱る。繰り返し。

うまくいかないときは、必ず自分に変わる点がある。そして、外力は使わない。使うのは内力だけ。自分に向かってしか使えない力だ。自分の人格を育て、信頼を得る。自分の力を育て、信頼を得る。それしかない。それをしない人は暖簾に腕押しを、力さえかければと思い、ブルドーザーまで持っていくようなものだ。けしてうまくいかない。ブルドーザーだろうと暖簾はひょいとかわすだけ。

愛するということ

愛するということは、好き嫌いの感情ではない。愛するというのは受け入れる姿勢のこと。好きも嫌いも受け入れて、その人のことを認める姿勢のこと。そこには自分と相手を同等のものと認める勇気が必要だ。初めて、自分以外の観測点、質点があることを認めることだ。自分は世界に一人ではなく、ほかの人がいると認めることだ。

それは、ラブストーリーで語れるほど甘くない。むしろ、いろいろな感情をぶちまけて、泣いて笑って喜んで悲しんだ先にあるものだ。愛するというのは難しい。そんなに簡単に至れるものではない。むしろお互いの努力が必要だ。感情ではなく、行動が必要だ。愛しているという感情ではなく、愛するという行動が必要だ。

伝えるということ

伝えるということは重要だ。自分以外の考える人に伝えるということだ。同じ背の高さになって、媚びるでも馬鹿にするでもなく、伝えるととだ。自分以外の質点に影響を与えることだ。これは、そんないうほど簡単ではない。伝えることは難しい。伝えることもお互いに努力して初めて成り立つ。

今、インターネットがこんなにも広がった。ビットを送る金銭的なコストは落ちた。でも、心的なコストは変わらない。伝えることは難しい。でも、伝わることは喜びだ。共感してもらえることは、ものすごく嬉しい。よかったなと思う。だから私はブログを書く。

*1:自分は左翼ではないが