心という認識

「心という独自の存在を認めない唯物論的な立場にはどのような難点があるか。以下のカッコ内に挙げる言葉すべてを正しく用いながら論じてください。言葉を使用する順序は問いません。(デカルト、機能主義、普遍的知識、クオリア)」
論述の筋がとおっていること。引用したところは引用元を書くこと(ネットの場合URL+日付)。自分の立場とその根拠が書かれていること。最低800字程度は書くこと。
よろしくお願いします。

http://q.hatena.ne.jp/1183571182

面白そうだったから答えて見た。

以下自分の回答(装飾ありVer)

まずは、唯物論と心を認める認識について。

こちらは2つとも共に認識であるという事、認識というのは一般的な科学知識では脳内ネットワーク上の接続=クオリアによって構成されています。そして、認識は物理的世界から、情報を捨象した集合となっています。

唯物論に科学的な不一致は、特に認められていないと思います。逆に言えば唯物論で全て(と言っても物理現象をですが)説明可能だと思います。なぜ、正しいと解っていることを固定した視点として常識として導入しないのでしょうか?

それは、全てのことを理解するのにコストが膨大になってしまうためです。唯物論で心と同じレベルの認識をするとどうなるでしょうか。逆にこの問題が解決できるならば、唯物論のみで他の認識はいらない事になります。

唯物論で全て考える

ちょっと試して見ましょう。自分の個人的な問題ですが、量子力学が最近はどうなっているのかを知らないのでその上の原子から、考えて見ましょう。

原子が多数組み合わさる事で分子となります。その原子が組み合わさる法則が存在します。個人的にはすでに必要原子量が人間一人で10^28個近く必要ですので、脳内シミュレート不可能となります。さて脳内メモリーを全く無視して続けて見ましょう。

それをすべて頭の中に入れてシミュレートしたとしましょう。脳内の原子数を超える原子数を管理できるかはなはだ疑問ではありますが。その理解法則が正しいものであってシミュレートが誤差がないものであれば、それは人間そのものを理解したと言えると思います。そしてそれはその人「そのもの」を頭の中で動かせる事となります。そのものを理解するためには情報を棄ててはいけないためです。全てを理解するという事は、そのようなやり方以外に存在しません。

実際には人間の脳は、こんなにメモリーが多くないですし、存在構成要素を超えた情報を保持できるのかかなり疑問があります。

認識の必要性

なぜ心という認識が必要なのか。これは心が在るor無いの話ではありません。そんなものは解釈=認識でしかないため、その考える人の認識=前提条件次第で答えは変わってしまうためです。つまり答え=心という認識は、認識できる存在の数だけ在るということなのですが。人間社会はそれを言語によって共有する事で、常識、その他認識=普遍的知識として人間社会上の文化として保存しています。

「心が存在するという認識があるという利点の説明」をするために「全ての認識が存在する理由」を説明しましょう。まず、認識とは情報の捨象、抽象であるということです。なぜそのような事をするのかというと、明白な利点が存在するためです。それはこの複雑な世界を単純化することで、あらゆることを単純に処理できるようにする事です。全ての網膜の色素情報が意識上に上ってきたら、おそらく何も理解できません。人は物理世界を視ている振りをして、認識世界を視ています。ある種の麻薬を使えば、認識世界外の世界も見れるようですがそれに意味など存在しません。

人間は理解をし、認識をすることで物事を単純化して理解する事ができます。心という仕組み自体は、感情フィードバック制御システムというべきかなり優れた構造ですが、万能ではないという事です。これが人間で在る以上の制約であり、逆に利点でもあります。

心というのは、人の内部のフィードバックを捨象、抽象し単純化した認識です。唯物論から心を語るには、情報量が多すぎて非常に困難であるために、心という認識が便利であるという結論を導くことができます。人間が認識世界を生きている以上、一つの人の内部フィードバックをまがいなりにも可視化できるのは、非常に便利な認識だと思います。