意識という生存戦略は最強か?否か

意識の発生

あるところの説によると、紀元前頃は人間は意識というものを持っていなかったということだ。どういう事かというと、その頃記録された書物、つまりオデッセウスとか聖書とかそのあたりを調べてみると、紀元前頃には主体というものが無いらしい。そしてそのかわりにあるのが、神の日常的な存在だ。

どういう事かというと、神が日常的に現れたり、話したり、命令したりというのは、紀元前くらいまでは当たり前に行われてきて、それが記録されている。そして、そのような記述は丁度紀元頃に無くなり、神は降臨しなくなり、人間は主観を手に入れたのだという。それまで人間は、自動的に動いており、それは自分というものを主観的に見るための能力を持っていなかった。

その違いが、旧約聖書新約聖書という違いに現れており、ユダヤ教からキリスト教に変化したというのは、まさに意識の発生による宗教側の適応だったのだという。

なぜ、意識が生まれたのか?

ではなぜ、意識が生まれたのだろうか?意識は、我々を苦しく嬉しく、痛く快くしてくれる。意識がなければ、我々には動物と同じように一時的な感覚とそれに対応した感情だけで動いていたことだろう。その世界は、顕現する神が支配しており、その支配によって私が動くといった具合だ。

私は主観が発生した理由をこう考える。我々が、そのように進化したのは、より複雑な問題を、より正しく解けるようになるためだ。そして、意識は生存率を高めてくれる。意識が無いときの人間は、選択が自動的になる。選択子は、誰かが選んだのではなく、いつの間にか選ばれているものになる。

我々の住んでいる世界は、単純な反射だけで生存を許してくれるような世界ではなかった。特に寒い北半球のヨーロッパのあたりは、とてもではないが、単純化した思考で生きていけるだけではなかった。意識の発生が、丁度人間が自然を克服したあたりだというのは、たまたまではないのだろう。今まで敵が自然だったのが、生態系の頂点にたった我々は、人間同士で争うようになったのだ。

全ては必要があるために発生する。人間同士の複雑な考えを元にした、シミュレーションは非常に難解だったのだ。意識の発明は、他人の思考のデフォルメの成功、つまり人格という概念を創り上げたことによる。

人格とは

人格とは、ある人にたいする入出力のデフォルメモデルのことだ。そのシミュレーションモデルが、手に入ると、そのモデル世界における自分の位置に存在するモデルを必要とした。それは、他人のモデルと相互作用による解を得るためであった。私という人格モデルは、「意識の私」こそが私その者であると誤解をすることで、意識は生まれた。

私という意識は、シミュレータの中の単純モデルであり、その存在は私の脳の中にしか無い。でも、あらゆる幻想とは認識であり、認識をするということは、それを土台とした世界が広がるようになる。我々は、認識の外に出ることが出来ない。

というわけで、意識は、「意識の私」が「物理的な私」であると勘違いすることで発展した。より高度な発展をしたために、ある弊害も生まれた。それは、ある種の精神病だったり、自殺だったりだ。そして、恒常的なまどろみのような多幸感もおそらく失った。意識を持った人間は、悩み、苦しみ、そして主観的な死を手に入れた。もちろん、それとは逆に、喜びや楽しみや、主観的な生を手に入れた。

人格モデルによる、人類の発展

意識は、最初はシミュレーションモデルでしかなかったが、やがて本体を乗っ取った。そして、シミュレーション世界を、現実世界と定義することで、その世界こそが「生きている世界である」という定義を行った。モデルによる単純化は、計算数を減らし、他人を理解する、私自身を理解するという幻想を与えた。そしてより多くの、深い計算を展開することができるようになり、それは武器であり防具となった。

人間同士で、言語プロトコルを解することによる、支配や、隷属、人心掌握、譲歩、交渉といったあらゆる生存戦略が生まれた。それらの戦略は、言語による現実シミュレーションを認識を追加することによって拡張した。新しい認識モデルの拡張により、さらなるメタ戦略が生まれる。あらゆる生存戦略が、絶対的なものではなく相対的な優位差しかもたない。

意識と民主主義の相似

意識とは、脳内のモジュールによる、相互作用による選択装置であると考えることができる。そして、民主主義も同様の選択装置である。そこではルールが絶対的であり、意識では内部のシミュレーション結果が良いものを選択するということ、民主主義では、内部の人間の多数決による選択を良いものとしている。

それらの2つともが、「選択をしたい」と言っている。選択をすれば、それは良い結果か、悪い結果を残し、その結果が自らに降りかかってくる。そしてその結果を学習することで、よりよい選択方法を創ることができる。そのフィードバックの為に、意識には意図的な喜びと悲しみと痛みが備わっている。より、鮮明に「今」を認識し、より早く、よりよい選択を選ぶためだ。

意識そのものが最上の選択方法か?

意識というのは、まだ2000年ほどしか使われていないが、その上では最も普及している選択方法である。意識は、脳内にシミュレータを作り、そのシミュレーションされた世界を鮮明にしてきた。だからこそ、多分次の選択方法も存在するのだと思う。しかし、その方法も所詮生存戦略に過ぎないので、意識自体は今後も残るのだろう。今でも、無意識な戦略が一部で存在するように。

その一端は、今では精神病者として扱われる形態に収まっているかも知れない。多重人格者は、その自己モデルを複数に分けることで本命の人格を守ったのだろうし、より多くの欠乏に依る才能を引き出すこともできる。アスペルガーは、コンピュータ社会に最も適応した種族なのかもしれないし、ADHDは、標準から離れた思考回路による閃きを得られるかもしれない。意識という組織自体が、標準普遍的なものであるなど誰もいっていないのだから、我々はより多くのより適応した、問題解決戦略に脅かされるかもしれない。