オタクと魔女狩りと文化の戦略

は て な?

オタクがなぜ気持ち悪がられるのか教えてください。

という質問があった。これを見て、前に考えていたことがあったので書いてみようと思う。正直回答はほとんど読んでいない。

魔女狩りとしてのオタク狩り

あなたはオタクですか?
という質問がある。これにYESと答える人は少ないだろう。

どちらかといえばとか、そっちのけはあるかも知れませんねとか。漫画は好きですよ。とかゲームはちょっとやってましたねとか。
本当に自称するような人は、ほとんどいない。これはなぜか。それはオタクという言葉が、自称ではなく、他称でかつ蔑称として広がったからだ。世界はオタク対非オタクで構成されているなんて嘘だ。グレーゾーンがかなり広範囲に広がっている。

さいころにアニメーションを見たことの無い人はほとんどいないだろうし、それをそのころ、つまらないものだったと言う者もいないだろう。

そして、グレーゾーンの人は、「オタク認定=自分たちと違う人種」というレッテル貼りの魔女狩りに恐れおののいている。だからこそ、自分たちは非オタクにまわり、徹底的にオタクを叩かなくてはならない。自分はオタクじゃないというのを、なぜか誇らしげに言う人がいかに多いことか。そして、そういう人ほど積極的にオタクを叩いて、自分の無実を晴らす。

マイノリティーという弱者

そう、これは結局、マジョリティーによる、マイノリティーレッテル貼りの魔女狩りに過ぎない。この構造が見えていない人が多い。マスコミはなぜオタクを叩くか。それは、自分たちがマジョリティーであることの証明とオタクレッテル貼りというわかりやすい構造が、受けるからだ。誰に?

それは、恐怖感を感じているマジョリティーに。自分たちと違うということは、その人を理解できないということだ。そして、マジョリティーはマイノリティーに侵食されるのを感じるとそれを恐怖に思う。マジョリティーは、マジョリティーだから強かったんであって、それの正当性はただの人数に依存している。

マジョリティーがマイノリティーに食われ始めると、マジョリティーは自分たちがマジョリティーであり続けるために、積極的に魔女狩りを始める。誰が魔女?あいつだ。じゃあ、あいつを火あぶりにしよう。それが正義と呼ばれるものだ。

閉鎖的であればあるほど、そのような傾向は増加する。自分たちを一定でおこうとする保存力みたいなものが働くのだ。

強さと弱さ

なるほど、マジョリティーとマイノリティーの戦いはいつの時代でもあるのだろう。マスコミがなくなったとしても、それがほかのところに権利が移るだけだ。そこは、圧倒的な数の戦力差で悪を焼き払う。そう、2chだっていつの間にか、マイノリティーが集まって、マジョリティーになった。

正しいなんて事は、そうじゃないことを見なかったことにしなければ、存在しない。存在はいつでも二面的で、反対の要素も含んでいる。「光がある」ということには、闇を見たことがあるという前提条件が入っている。それを忘れれば、正義の旗の下に正義を行使する自称正しい機関が誕生するだけだ。

なるほど、いじめというのも同じ構造なのだろう。問題はいじめられるものとして認定されないこと。されてしまったらそれで、その差はほぼ覆すことなんてできない。恐ろしい構造だ。

昔から、よくやっていることだ。敵を作って仲間を作る。敵の敵は味方戦法だ。そう、ただのマジョリティーという椅子取り合戦をやっているだけだ。椅子をとった者は、正義となって取れなかったものを焼き払う。そして、焼き払われたものはゲームオーバーだ。

生存競争としての椅子取りゲーム

これは、簡単な話でただの椅子取りゲームだ。席に座れば勝ちだし、座れなければ負けだ。そういうゲーム。それを勘違いして、「差別だ」、「レッテル貼り」だと叫ぶのもまた、そういう戦法を取ったに過ぎない。

ただ、そういうことを理解せずに狂信的に行う人が少なくないというのは、そうした方が戦略的に有利だからなのだろう。少数派が勝つには、ゲリラ的に戦うしかない。そして、少ない戦力が裏切るようなことは許さないのだ。

そう、今の価値観、例えば「かっこいい」とか、「かわいい」とかも構造はまったく同じだ。どうして、そうなのかと言われれば、そういう戦略で生存競争を生き残ってきたからなのだ。そういう意味では、この文化的価値観というものは、より生き残るための「文化」の戦略ともいえるのかもしれない。

自分を保存するために、そのような考え方を持たせるように振舞う。それはあたかも、文化がそれを考えているともいえるのだろう。間違った戦法を選んだ文化は滅びる。ただそれだけだ。そういう意味では、客観的に見て日本文化の戦略はどうなんだろうと思うが。