資本主義と情報主義の戦い

情報化って実は資本主義と対立してません?

最近思うことがある。それの主な原因は昨日のエントリー例のあれであるが。
それの内容は「情報」と「お金」って、実は戦ってませんか?という話だ。別に断定するわけではない。ただ、情報というレイヤーは帯域が必要なのであって、お金自体は要らないのだ。もちろんインフラを整えるのにはお金が必要だ。

でも考えてほしい、web2.0といってもてはやすが、お金を稼ぐモデルというのは増えていない。むしろ、お金が要らないのではないかと思わせるような気すらする。googleAPIを公開した。そのおかげで、簡単に普通で作れば何億もかかるようなシステムが簡単に作れるようになった。しかし、グーグルはそれで儲けているわけではない。ただで公開し、アドセンスの広告モデルで儲かるはずのないシステムを作っている。

従来型の企業からすれば迷惑ともいえるような行為だ。別に、そっちの肩を持つわけではない。ただ、今まで数千万円とお金を掛けていたものが、ただになってしまう。あまりにも暴落しすぎだ。グーグル自体はそれで宣伝と実験を兼ねてやっているのかもしれないが、他の競合企業はたまったものではない。ああ、これは「チープ革命」というんでしたっけ。

情報主義世界へのシフト

情報主義社会へは思った以上に破壊的にシフトするような気が最近はするのだ。それはイギリスで産業革命が起こした時に、インドの綿織物業界の受けたショックのようなものを、資本主義社会にもたらすのではないだろうか?食べ物が豊富になって、無くてはならないものから、当たり前にあるものに変わった様に。お金は無くてはならないものから、当たり前にあるものに変わるのではないだろうか?

正直、これは仮定でしかない。ただ、自分のカンは正しいと告げる。ただ、世界は繰り返すだけだと言う。どうなってしまうんだろう。次の世界は。

情報層への信頼

これも最近考え付いたことだ。情報を「虚」と見るか「実」とみるか。情報主義社会では、「実」だろう。物質層と同じように情報層を扱う。これは、最近の若い年齢層にすでに起き始めている。よくできた物語は、人に感動を与える。それは、漫画であろうと、映画であろうと、ゲームであろうと同じだ。

いつも新しいメディアが出てくると、古い世代が叩くという構造が生まれる。映画、小説、漫画、ゲーム、インターネット、どれもそのような経験をしている。これはどういうことなのか、古い世代の人はそのメディアが信じられないのだ。そのメディアにある情報を虚として、そんなものをやっていたら「おもしろすぎて」人間がダメになるという。これは、メディアの信頼性であるが、そのバックにある情報の信頼性も確実に上がってきている。

今まで、ただの現実逃避としてしか考えることができなかった、2次元への逃避などが説明がつくようになってしまうのだ。ああ、彼らは現実の代わりとして虚実の世界に浸っているのではなく、物質と情報が同様に実態のある信頼できるものだとも考えられてしまう。

自分はそういう意味では、これからの社会的には古い人間なのかもしれない。欲望を満たすだけなら、情報層で満たしたほうが、はるかに簡単なのだ。この誘惑は現実で厳しい人には、慰めになる。だが、もっと未来になれば、現実の方が見劣りしてしまう可能性の方が大きい。そうすれば、はたして人は現実で生きる必要があるのかという話になってしまう。

現に今、結婚率は年々下がり、出生率も最低、人口は下降を始める段階にまでなってしまった。これからもその傾向は拭えないだろう。どこか、行き付くとことまで行ってしまえば、変わるのかもしれないが。どんな手段で克服するのかは、まだ見えていない。

考えるべきこと

経済層と情報層を融合、共生関係になるようなビジネスモデルはないだろうか?アフェリエイトがそのようであると思うが、ビジネスモデルとするには少し弱い。もっと積極的な経済層へのフィードバックがあるようなモデルは存在しないとは思えない。考えてみる。

情報層への折り合いをどうするか。まだ、そんな段階ではないと言われればその通りではあるの。だが、気になるから考えてしまう。よい方法があればいいが。例えば例のやつみたいな共生関係が築けるような、そんな社会がいいと思う。1週間くらいで思いつくことを願う。