心の壊れる音が聞こえる/入力感覚の制御

自分の進む道を進めばいいんだなー!ということで、良く分からない空間を全開で思いっきり発散してみよう。

能力という幻想と感覚の絞り方

昔ビリーミリガン読んだときに思ったことを思い出した。多重人格と能力と感覚の問題。

ビリーミリガンの驚異は、個別の人格の多くが、それぞれ優れた能力を持っていたところにあった。大学レベルの物理を独学で学ぶ「インテリ人格」、武道家で超人的体力の人格、東欧の言葉を話す人格、絵のうまい人格、などなど。

ところが、それを統合して一つの人格にしたら、個々が持っていた「とがった」能力は失われ、ごく普通の人になってしまった。

(15年以上前に読んだ本を、記憶から書いているのでちょっとアレですが、当時もこの「統合したらタダの人」という所に妙に感銘を受けたのを覚えているので。)

Karenはビリーミリガンほどのスキルがたくさんある訳ではないが、絵のうまいJensenという人格の絵はかなりのレベル。本の164ページに、17の人格を1枚の絵に描いた「肖像画」があるが、なかなか表情豊かで、文章で表現される個々の人格の特徴がよく出ている。

(Jensenは、Karenが子供の頃頻繁に拷問されたグレーの部屋の中で、「美しい色を見たい」という思いから生まれた人格。世の中の美しいものを見て感動し、自らも美を生み出すのがJensenの役割。人間が生きて行く上で美しいものって大事なんですね・・・・。)

個別の人格は人間としての深みに欠け、中には問題ばかり引き起こす人格もあり、統合は欠かせない。ところがJensenは、Karenの統合が進むにつれ絵が下手になって行く。

つまり、ビリーミリガンでも、Karenでも、「統合」と「優れた才能」は両立しない。

・・・ということは、天才とは、統合的な人間であることを意識的にやめて、何かをシャットダウンし、偏った人格に入り込める人なのだろうか、と思ったり。「いつも入り込んでいる人」は近寄りがたい奇才で、「普段は統合した普通の人として生き、特定の時だけその状態に入れる人」は尊敬される天才、ってことでしょうか?

http://www.chikawatanabe.com/blog/2008/01/switching-time.html

感覚は意識レベルでは制御をする事は難しいけれど、例えば「集中」によって、意識を1点に集中させる事でそれ以外の感覚を切ることが出来る。例えば、劇的に面白い本を読んだり、物凄く面白いブログのエントリーを読んだり、面白い事を思いついたりすることで、その他の一切の出来事を忘れて、その部分のみの感覚の存在になる。体の感覚や自分が何者であるかも忘れ、ただその一点のみに集中することで、私は点になる。

そして、このことから考えられるのは、元のエントリーでも言っているように、「能力、才能」とは感覚の「足し算」ではなく「引き算」によって偏在させられているという仮説だ。自分自身の感覚として納得が行くのは、自分は情報との親和性と創造性の代償にかなりの「普通」の感覚を失っているという実感だ。能力がとがればとがるほど、汎用性を失い、汎用性を取り戻せば取り戻すほど能力を失うのを実感が出来る。

それはテンションであったり、勢いであったり、心理的コンディションなのだろうけど。自分の中の感覚を切って、入力感覚をそぎ落としているのが分かる。そして、もともと自分の感覚が一般よりも外部感覚を落とした状態が標準である事も理解している。

人格という枠によって感覚は制御可能なのか

多重人格は集中ではなく、人格によって入力感覚と記憶を切り替える。そして、その不完全な感覚を持った人格は通常とは別の最適化がされて別の才能を持っている。「才能」とは「入力の積みかせね」ではなく「感覚の切り方と最適化」であるという仮説が立てられる。

そしてその仮説は、意識が内在するものではなく外部の入力によって想起させられているという仮説に割りと一致している。私たちが、自分を自分だと認識できるのは記憶であって、実は内部状態によって、かなり状態が切り替わっているのでないだろうか。集中しているときの自分と、集中が切れたときの自分はもはや別物であるかのように入力からの出力が変化する。入力を自在に制御する事で、内部の変化を促し別の存在になるということを人間は無意識に行っているのだろう。人間は案外感覚制御によって、自分の状態を変化させているのかも知れない。

とがった才能の有効活用

今までのとがった才能はノイズとして棄てられることが多かった。それは社会が、とがりではなく汎用を望む、偏在ではなく普遍を望むから。またとがった部分というのは他の部分との親和性が少なく、なかなかくっつくものが無かったというのも原因だろう。

原子力発電所を作らないと核力をエネルギーに変換できないように、電子と陽子を離れさせないと電気として使えないように。今はまだ使えないエネルギーの源泉がそこに眠っている。今は、汎用性のある才能でないとそれは力を有効に使う事が出来ない。これからは、システム的にその使えない才能を集めてくるような装置が作れるかもしれない。エネルギーも物質の偏在性の偏りであるように才能は感覚の偏りである。偏在性をうまく活用できるのならば、才能を集めるマクスウェルの悪魔を作ることが出来れば、それはとても面白いものになるだろうなと思う。