意識とはゲーム理論の解答者ではないか?

意識は何のために生まれたのか?

意識とは何なのか?意識は何のために生まれたのか?私は、人間間の相互作用問題を解くためだと思う。人間関係だったり、相手の裏をかいたりするためだ。そのような理論が実は存在して、それは「ゲーム理論」と呼ばれている。

ゲーム理論

ゲーム理論(ゲームりろん、theory of games)とは、「ある特定の条件下において、お互いに影響を与え合う複数の主体の間で生じる戦略的な相互関係」を研究する数学、経済学の一分野である。

有名なものは「囚人のジレンマ」だろうか。二人の囚人が相手を裏切って自供をするという相互作用のジレンマだ。

シミュレーターの中の私

意識は、相手が何を考えているのかをシミュレーションする仕組みなのだろうと私は想像する。自分と同じようにあいても考えているということを相手の立場に則って想像するのだ。なので自分自身の気持ちがわからないと、そもそも相手の気持もわからないということになる。だから、自らの気持ちを単純化したモデルとして、この単純モデルを意識だと認識しているのだと私は思う。

つまり、意識とはシミュレーターの中の「私」なのだろう。多くの実験が意識はハリボテであることを示唆している。意識の決断する0.3秒前に既に無意識化で決断が行われている。瞬きを感じないように、シームレスに意識の時間感覚を遅くして、瞬きを感じなくしている。痛みが見ている瞬間に痛くなるように、脳内のラグを調整しているなどという数多くの実験結果がある。

なので私は意識は、他人シミュレーターでシミュレートしている自分版なのだろうと想像する。だから、人間間の相互問題が発生しなければ、意識を発生させる必要が無いのだと思う。私はそんな感じだった。自分は考えているし思っているし、存在していると思っているけれど、他人の気持ちなんてさっぱりわからないし、意志は無く、行き当たりばったりで面白がる方向に進むだけだった。意識が必要になったのは、人生の上であまりに理不尽で傲慢で人間を人間だと思っていないような人間とぶつかった時である。私は、寝ても覚めても考え続け、怒りに狂い、感情が爆発し、それを1年ほどやっていたところ、気がつくと自分が今までよりも自由が効くようになっていた。

それは、自分が戦略を組み、そのとおりに実行して、成果を上げられるようになったのである。それは、他人は普通はこう考えるだろう。だから私はその逆を実行して出しぬいてやろうというような、他人を意識した思考形態が生まれたためである。それまでは、自分を上手くコントロールできていなかった。何かを始めれば3日坊主で何も出来なかったのだ。

意識としての発展形

私は幸運なことに、意識して意識を獲得したので、ある程度の仕組みと形を知ることができた。意識が脳内の聖域ではなく単純にシミュレーターであることに気がついたので、発展形を構築しようと考えた。その結果、2つくらいのある程度の形になったものがある。

組織格

これは、人格の発展形で、組織が「何を感じて何を考えているのか?」をシミュレーションしたものだ。簡単に言うと、「他人の事を本当に考えて」の組織版である。簡単な話だができている人は少ない。「自分の事」しか考えないで、文句をいう人は、他の人のことも、組織のことも考えていない。これは大仰な名前を付けなくても、リーダーを体験したことがあれば、自然に身につくものだろう。自分が組織のトップだと思って行動するだけだ。

強い意識

意識の発展形。問題解決者の次の形体である。目的創造者。ゲームのルールそのものを作る考え方だ。自分や他人が、どのように目標を立てれば、自分の意図した形に落とし込めるのかを考え、情報を拡散する。これもよく出来るリーダーならできるのだろう。それ以前は、ゲームのプレイヤーとしてのハイスコアを狙っていたのを、ゲームそのものの胴元となることで勝利を狙うようになった。

意識の存在価値

意識を活用することで、無意識に反応だけで生きている人生を、自分から積極的に変える事ができるようになる。これが物凄く楽しいのだ。自分が無力ではなく、能力を持って解決に導けることが物凄く楽しい。解決者を超えて、ゲームマスターとしてゲームを構築することで、ひとつの場を形成することもできるようになる。

自分で自分の人生を創造することができるようになり、やりたいこと、なりたいことは、計画、戦略、他人を巻き込む(お互いにメリットがあるところに落とす)ことで意図して、物事を成すことができる。自分自身を自分でマネジメントし、意図通り、それ以上にうまくいくようになった。良いものだと思うので、どうにかして周りの人にも伝えられるといいなと考えている。