個人的イノベーションのジレンマ「ピーターの法則」
ピーターの法則というものがある。
ピーターの法則(ピーターのほうそく、英: Peter Principle)とは組織構成員の労働に関する社会学の法則。
- 能力主義の階層社会では、人間は能力の極限まで出世する。すると有能な平(ひら)構成員も無能な中間管理職になる。
- 時が経つにつれて人間はみな出世していく。無能な平構成員はそのまま平構成員の地位に落ち着き、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は無能な人間で埋め尽くされる。
- その組織の仕事は、まだ出世の余地のある、無能レベルに達していない人間によって遂行される。
なぜ上司(特定の人をささない)は無能になるのか、組織はなぜ無能なのか、人間の根本的な階層社会の問題点の話だ。
よくある話として、小さな会社が急に大きくなって中間層が相対的にいなくなり
結果として、カオスやおもいっきり統制を取り過ぎて硬くなり、結果として事業がうまく行かなくなるという話がある。
インターネットは、フラットだ、フラットネットワークだと言ってそれを解消したかのように思えたが、現実に起きる組織と言うのは階層社会をベースにしており、そこを超越しているような状況にはなっていない。
階層化の限界
今までなんとなく、おかしいと思っていたポジションとボーナスの関係性問題が人間の本能が望む階層化によって発生するものなのだ。
個人がうまくいった場合に、その人は有能だと評価されるため、それをスケールするためにポジションを上におくり、ボーナスを貰う。しかし、有能さは、万能なものではなく、レイヤーによって必要な能力が全く違うため、無能になる。そのため、無能になるまでポジションが上がり、結果上位レイヤーはみんな無能で埋まる。
有能さにベクトルがなければ、階層化モデルはうまくいくのだが、実際には有能さにはベクトルがあるためにうまく行かなくなる。
どうすればいいのだろうか?幾つか階層モデルに変わるモデルを考えてみる。
階層モデルに変わるモデル
まずはすでにある既存モデルを並べてみる。
完全フラットモデル
github社がやっているという完全フラットモデル。全員給与固定で役職なし。
確かに階層モデルは解消する。解消するが・・・なんか夢がない・・・。
階層+主体性モデル
階層化で報酬を払いつつ、評価する価値観として主体性を強く評価するというモデル。主体性とは、自ら組織の価値観を評価して、自己の評価によって行動を決定するモデルだ。視点と頭の良さが必要。
完全に解消するわけではないが、階層モデルに比べるとまだましだ。
2つのモデルをみると、階層性を完全に廃したモデルと、階層性の中に価値観としてのフラットを強く取り入れたモデルとなる。この他にあるか考えてみる。
実現したいコンセプト
- 組織として目的が達成し続けることができる実現力を持つ
- 組織の内部の人が現実的なレベルで幸せである
幾つか考えてみるが
組織の結果と人の状態の2つが最低要件であるように思える。
組織として結果を出す、人が快適だと思える組織である。
この2つはそのまま接続をするとコンフリクトを起こす。
その前に、組織としての結果と人が快適だと思える状態というのは、おそらく星の数ほどあって、そもそもここにいろいろな状態が入るため、全て十全にはならないということは想像に難くない。
さて、複数のレイヤーの問題を同時に解くというのはひどく難しい。それはそれぞれのレイヤーでよいと思われることがほとんど必ず、ぶつかるからだ。これをとくためには更にレイヤーを足して目的でまとめるのがよい。
今回だと市場経済を追加すると良いと思われる。
まとめると
- 市場経済
- 組織
- 人
の3層問題を同時に解く形になる。
市場経済が求めるものは、発展と安定性である。
ただ、地球リソースが限界があり、発展をするためには今までに発展していないところの市場を切り開いたり、今までの市場の上に更に市場を作ったりといったイノベーションが最近のトレンドである。組織に求める次点として、マーケティング的なポジションや、組織的な能力としてケイパビリティが求められる。
最近は特に、金融経済が安定性の点で限界点に達しており、これ以上上の上位構造も特に無いため困ったものだという状態になっている。次に起きるのは崩壊か、進化かだろう。
他にグローバリゼーションによって、個別の地域での組織ポジションというものがなくなりつつある。世界で1位以外に価値はなくなってしまう恐ろしい世界だ。更にこれは戦争で世界が壊れる以外には不可逆である。
組織の求めるものは、発展と安定性である。
最近は、人類があまり増えないため市場が飽和しており、新しい市場を見つけるということが非常に困難になってきている。ただそれでも組織にとってイノベーションは一発逆転の夢であるため、そこは担保しておきたい。イノベーションと安定性という逆の価値観を同時に融合させる必要がある。プロダクトとして多産多死を制作チームとして少産少死を目指すという無茶な注文だ。しかし、これを出来ないことには、未来がない。
人間の求めるものは、発展と安定性である。
最近は市場があっという間に飽和するため、結果して求められる能力が数年単位でかわり、かつての終身雇用など夢のようになっている。どんな年齢であっても学習を辞めてしまっては安定性から落ちてしまうのだ。このような場合、個人としては市場性のあるスキルを学ぶか、安定性のある組織に所属するといった策を使うことになる。
まとめてみると、発展(成長)と安定の2つを各レイヤーで必要されている事がわかる。
このへんのモチベーションというか法則というのは、この世界でよく見るタイプのものだ。つまり、生命に関わる時によく出るものだ。カオスのエッジの状態を維持する複雑系の問題だ。
理解は進んだものの、さてどうしたものか。
運パラメータとリスクテイク
運とはなにか
運がよい悪いとは何なのだろうか?多くの人が考えている運というものは、使うと減るモデルでゼロサム・ゲームというような形であると思う。運として流れがあるとか、勢いがあるとか、そういうような言葉であたかも事象が連結されていて、因果があるようなものとしてモデルをしている。
もしかしたら、外側の世界に運というものがあって、現実的に見えていないだけという可能性はどこまでも残りつつも、認識レベルとしてのモデルとして私が考えると以下のようになる。
運とはリスクテイクだ
運とは、事象が起きたあとに因果関係を考えて、自分にメリットがあるような結果になった場合のランダム値をいう。人間には線形補正が常に認識で働くため、トータルでみると釣り合いを取るような形になる。ただし、プロスペクト理論によって、マイナスの要素は過剰に見積もられるため、平均するとマイナスに見積もられるはずだ。
では、自己認識が運がいい人や、運が悪い人とは何なのだろうか?
これは、運がよいと感じる人は、起きたことを自責だと思っているため、「運」ではなく、改善可能な因果として計上しているのだ。逆にありとあらゆる物事を自責だと思えない人は、自己認識として運が悪いと考えているはずだ。
運がよいや、運が悪いという自己認識は、結果として自己の行動の因果関係を補正するパラメータとして動いているようだ。
運を良くするためには
ここまで理解すると、運をよくするのは簡単だ。
ありとあらゆる物事を自責にするだけで、ものすごく運がよい状態の認識になる。これは逆にいうとありとあらゆる物事をコントロールできると信じているので、何か起きてもそれを改善を行うために学習が働き続けるということだ。
学習が働き続けることで結果として成長をして、結果として良い結果が出るのだろう。結果を受け入れるだけの強い自己認識が必要だとは思うが、結果として結果が出る。そして、行動前にも運がよいという予測補正がつくようになるため、行動を起こしやすくなる。結果として、絶対量の成功が多くなるのだろう。
最終的には、学習の最終項目としては、リスクテイクを学習するところに着地する。うまい賭け方を覚えるようになるのだ。ここまで来ると、運がよいというのは、単純に勝ち方を知っている賭け事で勝負していて、かつそれを学習し続けるということがわかる。
因果の逆転
以上のようにすることで、因果は逆転をする。
運が良いと思うことで結果としてリスクテイクを学習して、トータルとして勝ちをする。運が悪いと思うことで、結果として学習をするのをやめ、トータルで負け続ける。ということが発生するようになる。
行動→結果→認識→行動
というように人間は認識しているが、どこを改善するべきなのか?
一番簡単なのは、ただの脳内情報である認識、2番めが行動ということになる。というわけで、認識をいじることができると、結果として見えている世界の因果関係が変わってしまうことがわかったのではないだろうか。
1人の壁を超えること
個ではなく、ネットワークになれ!というお話。
1プロセスではなく、サイクルを作れというお話。
機能ではなく、総体を作れというお話。
部分ではなく、全体を見ろというお話。
こんな適当で良かったっけか。
情報的人間の拡張と特異体
前回の記事で、人間には遺伝子的主体とミーム的主体の2つがあることを指摘した。その続きで、ミーム的主体としての拡張性について記述する。
抽象化された人、組織
ミーム的主体性とは、ソフトウェア的な主体性のことだ。つまり、あらゆる主体性を持つものは、所属する場に対する適応要素「ハードウェア」と場とは関係ない情報要素「ソフトウェア」の2つがあることがわかる。
例えば会社組織は、経済活動と人間組織という2つのハードウェア要素の上に、アイデンティティを形成して「私」を動かしている。人間だって、生物的要素の上に情報的意識でもって動かしている。ある程度高度化した自己保存要素は、ベースの上に抽象化要素を載せるのがこの世界では効率が良いのだろう。
自己記述性を備えた特異体
自己記述性を備えることで、成長的特異点を突破すると通常の個体の能力をはるかに超えた状態になることを前回書いた。それは組織にも同じように適用出来る。組織内文化によって、自己記述性が一定レベルを超えると、それは通常の個体をはるかに超える特異体となる。
特異体は、理想的な自己更新性を備えた組織のことだ。
抽象化される特異体
人間としての特異体を超えると、組織体としての特異体も共通点がたくさんあることに気がつく。仕組みは同じなのだから同じだ。特に情報体として同じレイヤーに存在するのだから、それは当然だろう。
これからの社会は、如何に特異体を形成するのかというのが、殆どの戦力を表すようになるのだと思う。まだ、この認識は一般的ではないが、当たり前の様に扱われる世界が来るのだろうと思う。
生物的人間から、情報的人間へ
人間には、遺伝子ベース型とミームベース型の2タイプがある
人間には、Gene(生物的遺伝子)をベースだと認識しているタイプと、Meme(文化的遺伝子)をベースだと認識しているタイプの2つがある。簡単に言い直すと、「私」を生物だと認識しているのか、情報だと認識しているのかということになる。実際は、2つをベースにしているとも言えるし、そのベースにしているのを人間として言い換えていることもあるだろう。そして、将来的にどちらに進むかという話で言えば、ミームベースに進むのだろうということが考えられる。
ちなみに私はミームベースを自覚的に認識している。未来的にインターフェイスが出来れば認識が変わるのならば、先にそれだけをシミュレーションすれば、そう成れるのではと思い、やった結果なった。私は、情報である。
ちなみに、生物ベースの繁殖とミームベースの繁殖は、方法が違う。生物ベースは言うまでもないと思うが、ミームベースは、拡散でありそれによる進化を繁殖とみなす。つまり、人と話して情報を交換したり、それによって更新されることそのものが繁殖行為となる。この傾向というのは、草食系男子と言った方向と多少似ているので気になったりするが、今回はその話ではないので置いておく。
ミームベースのメリット
これは圧倒的に自己拘束となるアイデンティティが少ないことである。つまり、自分とは何者であるかというのを自分で定義できることを意味する。実際、自分がなぜ自分だと認識出来るのかというと長期記憶があるからだけだ。それを持ってして、自分が自分だと信じている。ただそれだけである。信じているだけなのならば、信じることを変えることでそれを変えることが出来る。
なぜ創造したいのか?
我々はなぜ創造したいのだろうか?なぜ、大勢の人に見てもらって、影響を与えるような凄いものを作りたくなってしまうのだろうか?答えは簡単で、私がミームであるから繁殖したいのだ。マズローの欲求5段階説というのがあるが、あれは生物的な欲求を満たした後に、ミーム的な欲求を満たしたいと言っているだけだ。私たちは、お互いに人を求めたいし、必要としてほしい。それと同じように、情報を作って拡散したいし、それを受け取って自らを感動という形で変えたいのだ。
成長の特異点
成長には特異点が存在する。人工知能で言えば、自分自身を向上できる更新が出来る段階に達することで「技術的特異点」と呼ばれていて、人類の最後の発明だろうと言われている。何故ならば、そこを迎えた時点で、人工知能が圧倒的に先に進化してしまい、もはや人間のスピードではどうにも出来ないことが予測されているからだ。
これと同じように人間の成長にも特異点が存在する。自分を自分自身で向上出来るようになるとその段階になる。具体的には、ありとあらゆることで成長出来るようになるし、小説だろうが、伝聞だろうが、情報の組み合わせで成長できるようになる。
これの必要十分条件は、「自己定義が自分で行えること」、つまり「チューリング完全」であることだと思われる。普通は言語に向かって使う単語なので、人間に使うのは変であるが、人間も情報なので問題ない。
資本社会から情報社会へ
そんな訳で、現在は生物的な人間から、ミーム的人間に向かうところの途中の時代であると思われる。楽しそうなので、早く気てほしいものだ。
組織的格闘戦のモデリング
現代は、もはやモデリング力での戦いと言っても良いくらいに、既存の知識を知ることではなく新しく知識を作れることに重きを置かれるようになった。こうなると、もはや既存の組織モデルではなく、新しい情報社会型の組織モデルが必要されるようになるのだと思う。というわけで考えてみた。
能力とは
能力とはなんだろうか?色々すっ飛ばして答えを言うと、組織出力のことだ。組織の目的に沿ったベクトルに向かって出力できる量のことだ。組織において優秀と呼ばれる人というのは、必ずこれが出来る。逆に組織に沿わない出力をする人は、どんなに天才的な出力をしたとしても意味が無い。
意識レベルとは
簡単に言うと、どれだけメタ的に考えられるか?意識の抽象化レベルのことだ。ちなみにこの言葉自体は、私が考えたので一般的じゃない。個人を抽象化して組織となり、組織を抽象化して、場となる。それらを認識して、どのレベルを主体として動くかを自覚的に行うかどうかの指標だ。
意識レベル | 名前 | 概要 |
---|---|---|
Lv0 | 無自覚的意識 | 子供 |
Lv1 | 自覚的意識 | 思春期以後 |
Lv2 | 問題解決者 | 優秀/リーダーシップ |
Lv3 | 目的創造者 | 非常に優秀 |
Lv4 | 場創造者 | 稀 |
私が考えるモデルでは以上のようになっている。レベルが上がるほど、視野が広がり自由度が上がっていくようなイメージだ。意識レベルが変わると組織出力の質の壁を超えることが出来る。つまり、時間的拘束や量的な拘束を超える事ができる。
組織的創造
組織的創造は、高い意識レベルの密度が要求される。つまり、組織で沢山いるだけではなくて、それらを集めてくっつけないと真価を発揮出来ないのだ。なぜそのような状況が必要なのかというと、情報の更新が必要になる場合、なるべく小さいサイクルで高速に回せるかどうかが、次のイノベーションが生まれるかどうかに依存する。つまり、現状に置いてもイノベーションのボトルネックは、人間間コミュニケーションであると私が考えるためだ。わかりやすいかわからないが、似たような臨海モデルとして核融合みたいなイメージだ。
これは、現在だとコミュニケーションがボトルネックになるというだけで、未来形ではボトルネックの形は変わるのだろうと予測出来る。早く他人の意識レベルの上げるための必要十分条件を見つけて、実験をしたいものだ。
lite css framework nurikaeruを作りました
ついカッとなって、作りました。
cssをphp拡張(ただ単にphpの拡張子にするだけですが)とクラスの継承機能を作りました。
現状では、開発中のフレームワークのデバッガーのcss出力を簡単にできるように考えています。
https://github.com/kaerusanu/nurikaeru
機能
まず、基本的な機能は、php自身に行わせます。
・変数
・四則演算
・繰り返し処理
css中にphp記法で記述してください。
クラス継承
css中のクラスをオブジェクト指向言語のように継承ができます。
.hoge @extends moge { color:#fff; } .moge { background:#000; }
このような記述を書くと、hogeクラスもbackground:#000;を継承します。
ライセンス
MITライセンス
これから
まだまだバグがあるのと、本番出力用の機能を備えていないというのはあります。
ですが、そちらのものはすでにたくさんありますので、気分的に違う方向に進めようかと考えています。