共有できるものと出来ないもの

最近は色々と考えることが多すぎて困る。何を考えているのかというと、組織の立ち位置というか、組織のあり方というか、自分の立ち位置というか、自分のあり方である。

私は、どう仕様も無い理由で、どうにもならないトラウマっぽいものがある。それは、「ビジネスが上手くいかなくて、みんなの心がバラバラになって組織が死ぬこと」である。どうしようもなく怖くて、痛くてしょうが無いので、それを感じるようになることを極力避けたいと思いながら行動するのだけれど、どうしようも無いときにはどうしようもない。

それは、世界のルールみたいなもので、人間が死ぬのと同じような頻度で、組織は死ぬ。私は、それが怖くて痛くてしょうがない。本当に嫌だから、みっともなく、恥ずかしくあがく。危険が迫って、どうしようも無くなる前にどうにか出来るようにしようとする。だからといって、その行動が理解されるのは少ない。それは当然で、私自身もよくわからない感情に踊らされている面もあるのだから、よーく考えてみないと、その感情はわからなかったりする。

なんで私自身が怒っているのか、私にもわからないことが多いほど、私は鈍感だ。なんというか、滑稽で、恥ずかしいのだけれど、組織がうまく行けばいいと考えて、後先考えないで行うのは良くないのだろう。自分の感情がうまく理解できるようにならないと、いつまで立っても、泣いているだけではよくないよなぁと思う。

共感できるもの、共感されるもの

こんなことを言ったって、滅びる痛みを知らない人には、どうにも伝わらないと思う。よっぽど感受性が強ければわかるのかもしれないが、私自身も経験していない私に伝えるとしたら、経験させるしか無いと思う。そういう意味では、私の今の状態は非常に不自然でしょうが無いと思うのだ。

だから、断絶は仕方ないのだと思う。私に伝える気があっても、相手に伝わる気がなければ、意味はない。伝わるとしても、それは表層でしか無い。暗くどんよりとした世界が伝わるとは思えないし、逆に伝わらなくてよかったとも思う。それだけ、ひどい世界だから。

でも、根本のそういう気持ちを理解されずに、お前が平和を乱してる的なことを言われると、辛い。相手も、別に言いたくて言っているのではないと思うし、私は相手のためを考えていても、それを相手が望んでいるわけではないというのは分かっているけど。やはり、理解されないのは悲しいし、苦しい。

ここで、これだ!という解決策は無いし、相手も私と同じ目にあったあとなら、こういう事かということが理解できるのだろう。私は両者がわかりあえないことが、よく理解できるので物凄く悲しいと感じる。ああ、両親はこういう気持ちだったのだろうなと、今思った。