仕事と生き方

アンプとしてのコンピュータ

年収300万の人より、年収1200万の人の方がよっぽど収奪されている時代

なるほど、そうなんですよね。単純仕事を拡大させるアンプとして、コンピュータが広く使われるようになった。だから、ボトルネックは完全に人間側になってしまった。今までは科学、社会を発展させるボトルネックは、未成熟な科学だったり、加工技術だったり、生産技術だったりした。

今は違う。7割が情報を作る時代だ。ボトルネックは人間側に完全に移ってしまった。出来る人と出来ない人の差は、数倍ではなく、数十倍、下手すれば数百倍になってしまった。だから、一人の人間で組織に勝つことが出来る。一人のほうが、下手な組織よりよっぽど統率が取れていて、コミュニケーションのコストが低い。だから、速い。

一方、そのようなコア技術を持たないものは、成長が無いので相対的に見て、格差が生まれてしまう。これが資本主義から、ポスト資本主義に向かうときの格差社会。持つものと持たざるものが、土地、物、資本などの有形のものから、成長、人格、技術など無形なものにシフトしてしまう。

「考えの違い」は決定的に人生を変えてしまうという当たり前の事

人間において、他人と自分は何が一番違うことだろうか?出身だろうか?教育だろうか?親だろうか?人種だろうか?性別だろうか?私は「自分という認識」の考えだと思う。自分は生産的な人間なのか、それとも自堕落で落ちぶれた人間なのか、また将来どんな人間になろうというのか。過去をどのように考え、未来を紡ごうというのか。自分をどう変え、どのように生きていくか。

そう考えると「仕事」という枠は、少し小さい。仕事だから、と家庭を放置するのは、人生においてあまりにも失うものが大きい。どんな仕事をしたいかではなく、どう生きたいかだと思う。どんな職について、どんな業績を上げるかというのは、あまりにも一面的過ぎると思う。

だいたい資本主義で欲しいモノは手に入れた。かつてないほどに、この国は発展しモノには困らなくなった。そしてまた次のシフトが来た。今度はモノじゃなくて情報。資本じゃなくて、人格。金をぶちまけるマーケティングではなく、人から人のマーケティング。今、一番欲しいモノはなんだろうか?衣食住はあらかたそろった。それ以上はモノでは満たせない。持つだけでは、満足できない。ブランド物が何であんなに売れるのか?それはその人をそれだけの価値のある人間だと認められたような気持ちにしてくれるからだ。

本当に欲しいのは、モノじゃなくて精神性。素晴らしい技術ではなくて、人と人との繋がり。そしてなにより、それによって満たされた自分だ。私は仕事を仕事だと思わない。生きることそのものだと思っている。生産し、消費するサイクルの一員になる。素晴らしい。そして何より、そのことで他の人に喜んで貰えれば、私は満足だ。

次の世界は満たされる世界が来ればいいなと思う。飢えをマーケティング的に煽るのではなく、充足を与える。いくら売れたかではなく、どれくらい満足させられたかを競う。そんな世界になればいいと思う。