ほんものとニセモノ

似ているものと、本物には超えることの出来ない壁がある。

テレビを珍しく見ていた。その番組では発展途上国の現状を見せて、それでタレントがお涙頂戴していた。それを見ていて、黒くて汚い偽善を感じた。

それについて気になったので少し考えてみた。テレビでは「世界の五人に一人が一日一ドル以下で暮らしている」という統計結果をVTRで見せて、それを見たタレントが文字通り涙して、自分たちにも出来ることがあるというような趣旨を言った。そっけなく、とても泣けるようなVTRではなかった。これを見た僕は、「自分はこんなにも綺麗な心を持っていているアピール」は公共の電波でやめてほしいなと思った。

その後にそのデータ統計者が私たちは少しの力(主にお金)で世界を変えることが出来るというような発言があった。どうも、納得がいかなかった。だって、私たちはこんなにも恵まれていて、たった少しの力で汚くて醜い世界を、綺麗な世界に変えてあげることが出来るといっているように思えたからだ。

一見正しいことを言っているような気がするけど、何か違うと思った。
なにか釈然としなかった。

自分のなか

私は海外の発展途上国の事情を詳しく知らない。ただ、汚くて醜い外側の世界を見たときにどのように考えるだろうか?僕は昔は「こんなにかわいそうな人たちがいる」と哀れんでいた。もっと言えば「下の人間だとさげすんでいた」のだ。そして、自分の自己愛を満たすべく、僕はこんなにも感受性が豊かですと言うように悲しんでいた。でも、それはポーズとしての悲しみであるし、現実世界には何も干渉されない悲しみであるがゆえに2、3日で忘れてしまった。今なら分かるが忘れなければ、矛盾が生じるから、忘れたのだ。

自己愛のポーズのための悲しみは、本質的に何も変えることが出来ない。それは、現実の否定であるし、自分が見たくないものを隠すための寄付や活動には意味がないからだ。私たちの心の地理領域はそれほど広くない。実際に紛争地域に行って見に行く人は少ないだろう。また、見たことのない人、知らない人に対して悲しんでいては、身が持たないということもある。

私たちは、ドラマや映画を見るのと同じように、ただ貧しい人たちの物語をみて悲しんでいるのだ。それには実感はなく、自分は安全な場所にいながら、見ものとしてそういうものを見ているということに気がついた。

本当に近い人が悲しいならば、僕はそばに行って話しを聞いて、出来ることなら力を貸そうとするだろう。けして、金を少し与えてどうにかしろとは言わないだろう。そう考えてみれば分かる。感情に訴えてお金を引き出すという手法は、方法論として正しいのだろう。ただ、本当に世界が変えられるかと聞くとそれはNOといわざるを得ない。今、感情からのアプローチによる施しで世界が変わったかといわれれば違うと思う。

内力と外力

外力によって外側から変えられたものは、ニセモノだ。外側からお金、食べ物、教育を与えたところで、それはその人たちのためになるのか?というよりも、自分のためにやってはいないだろうか?

親は子供にモノを与えるというのは、それに似ている。最低限の教育、食べ物などがなければうまく生きていけない。しかし、それが外側の欲求であるならば、それはうまくいかない。親が子供に過剰にモノを与えるならば、子供は欲しいと思う前に貰ってしまうことになる。それは欲しいと思う機会を奪っていることになる。そして、子供は欲しいという感情がなければ、欲求が少ないので成長などの機会も奪ってしまうことになる。親がこんなにもしてあげたのにという嘆きは、どこか似ている。子供は冷静に親のためなのか、子供のためなのかというのを見ている。その違いはなんだろうか?

親は子供のためという言葉を自己正当化のために使う。子供のためにといっているときは、ほぼ間違いなく、親がそうしたいためであり、子供はそう考えていない。親は子供のためといって、自分の夢を託したり、自分の間違いを回避させたりしようとしているが、それは自分で夢を探す機会や、失敗して自分で間違いを認める機会を奪っている。辛い体験は、幸せになりたいという感情を生み、失敗体験は、次は失敗しないという感情をうむ。自分の内的な感情がなければ、それは意味がない。

受け入れることと一部分を好きだということの違い

受け入れることというのは好きなところ、嫌いなところひっくるめて認めるということだ。一方、一部分を好きだといい、でも嫌いなところは嫌いというのは、一見好きな部分の部分のみを見ると似てるように見えるが、まったく別物である。〜ちゃんはこういう部分は好きだけど、でもこんな部分は嫌いというのは、本質的には認めていないのである。受け入れるというのは全てを認めることであり、一部分好きというのは嫌いな部分を拒絶しているということだ。

拒絶というのは、やられてみればわかるとおり、非常に厳しいものである。理解されていないと感じ、例えよいことをされていてもなんだか悲しいものである。

さて、色々な事柄を見てきたが、何を言いたいのか察しのよい人にはわかっていただけるのではないだろうか。

地球は今現在、汚く、醜くなっている場所もある。苦しい人もいるし、幸せな人もいる。それを認め、受け入れそういう地球が好きだといえるところから全ては始まるのだ。それは、子供を無条件に受け入れるのと同じであり、また戦争だらけの歴史を受け入れるのと同じだ。

今の平和だと考える世の中には、実は自分の視点でそのように見えている、もとい観たいのであり、現実には紛争状態の地域なんていくらでもある。それを認めて、現実的にどのような手順でどのような方法を用いてそれを解決できるかというのを論じ、それを実行する機関なりを作り、それを実行するのが本物である。できなかったけど、みんなの心には少しでも残ったからよかったよかったではニセモノである。なぜならば、いつまでたっても解決しないからである。一見、似ているメソッド(方法)が違う結末を迎えるのは興味深い。

似て非なるもの

ニセモノのメソッドとは「本当の目的」が達成することができなくなってしまう方法であり、一見甘い近道のように脇にそれて、進めば進むほどあとに戻るには大変なので戻りたくなくなる方法だ。さらに言えばニセモノというのは現実を歪めて見るという認識である。一方、本物というのは真の目的を忘れずに、今あるニセモノを勇気を持って手放すことである。

目的に対する手段

よく会議などで陥ってしまう罠が自分たちの縄張り争いをしてしまうことだ。会議の目的を忘れ、自分たちの私利私欲を満たすために使ってしまうことだ。これと同じようなことは、頭の中でよく起きている。頭の中では複数の欲求が、ひとつの体の実行権限を得るために争っている。自分の生きるための目的はなんだろうか?幸せになることだろうか、夢をかなえることだろうか、それとも刺激的に生きることだろうか?なんでもいいが、それを忘れて欲求が会議をするならば、各々の欲求を満たすために総体として向かう方向がランダムになりちっとも先にも後ろにも進むことができない。しかしながら、体は非常によくできており、低位の欲求を満たすと高位の欲求の欲求が通るようになっている。だから、私たちは位置二日に5回寝たり、7回食べたりしなくてすむのである。逆に言えば、低位の欲求は高位の欲求を満たすための前提となっているということである。

「幸せに生きる」ための手段としての「お金」を得るための「仕事」をするための「資格」を得るための「勉強」というように、多くの目的は「目的-手段」関係でより、上位の目的を実現するための手段である。本物というのはこのツリー状につながった「目的-手段」ツリーを下から埋めていく手法である。ニセモノというのは、下位の手段を飛ばして目的の物を手に入れることができると考える方法であり、その目的を手に入れたとしても最上位である「幸せに生きる」を実現できなくなる手段である。例えばお金を得るために銀行強盗を手段として行った場合は、一般的に幸せではない人生を送ることになる。そういう意味で上位の目的との帯域を閉じてしまう方法がニセモノである。

ニセモノの本質

ニセモノとはなんなのだろうか?より拡張してエッセンスの部分を抽出すると何になるのだろうか?

自分の出した答えは

「目的-手段ツリー」を閉じてしまう方法。
短絡的であり、目的を達するために、目的を失う方法という矛盾

ということとなった。

私が最初のテレビを見たときに思った気持ち悪さは、このことだったのだ。
平和や貧しい人たちを自己宣伝の手段に使われてしまっては困るのだ。そのことでその言っていること自体が実現しなくなってしまうのだから。