有知と純粋さは同居するか?

イメージとしての「純粋」というものと、無知の逆「有知」は同居するのだろうか?それと、無知に付随する属性としての純粋。知ると言う事に関しての属性「賢い」どうも、交わりあわないような気がする。でも、交わらないならば、未来に「純粋」な人は居なくなる。

「知る」と言う事のイメージにはよくも悪くも、両方を飲み込むというイメージが有る。そして知る事は基本的に不可逆だ。だから、知れば知るほど人間は、純粋ではなくなる。(純粋をそのままの意味で受け取るならば)

作られる純粋

昔のアイドル(いつの時代だ)は純粋であることがよいこととされた。それは男性にとって都合のよい女性像だったのだろう。今でも女性タレントは演技として無知を装う事があるらしい。昔から神話が崩れたとはいえ、まだ有効な戦略らしい。

確かに、「純粋な女性」と「純粋な男性」という表現を比べると、女性に比べて男性の付加価値はそれほど高くないように思える。

知る事の価値、知らない事の価値

知る事で、人間は多様な価値観、考え方を学びより良く生きられるはずだ。そのような形で意味が有るし、その知ると言う本人にとって価値がある。知らない事の価値は、逆だ。知らない事で主体的に得られる事はそれほど多くは無い。しかし、知らない事を回りに知らせる事で、周りの人に守ってもらえるという利点が有る。群で生きる人間にとって、幼い時の戦略はそうなのだろう(まぁ本人は戦略なんて考えていないだろうが)女性も同じ。そして、それを意識して作るのが、「作られた純粋」。なんか、人工ダイヤモンドみたいだ。

あ、擬態か。ソーシャルな擬態ですね。「自分は純粋です守ってください」戦略。でも結局、その戦略を選ぶこと自体が「知る」ということで「純粋」さを失う事になる。ということで偽者としては成立するが、本物としては成立しなくなる。