時間を記憶のネットワーク認識として捉える

最近は、いろいろあった過去のわだかまりが解消できてよかった。それに伴って、いくつかの認識が大きく変わりそうなので、それを書きだしてみる。

認識前提

私は、以前から「私」を個別のひとりの人間として認識することに不自由を感じていた。もっと、拡張出来る余地が十分にありそうだという意味だ。なので、いろいろ実験的に切り分けてみたり、増やしてみたり、引き伸ばしてみたり、大きくしたりしてみた。結果として、個という認識は、一般的に思われているよりも、かなり自由であると感じられた。

それとともに、時間認識に対しても、自由だった。私は、時間認識を6倍速度に設定してある。一般時間の2ヶ月で個体1年が過ぎる。一般時間の1週間は、個体時間でいうと1月よりも重い。私は認識時間が6倍速なので、認識時間で一般時間分の成長が出来ないと、残念に思う。忙しさにかまけると、そのようなときもあるが、概ね認識1年で1年分の成長は果たせたと思う。だから、他の人からみると変化が激しく見えるのかもしれない(表立ってだしてるわけじゃないから、気がつかれないかもしれないが)。

IT業界はドックイヤーと言われる。つまりは、上みたいな話なのだが。認識時間というのは、かなり絶対的なものだ。認識時間の速度が違う場合、多少の差異はすぐになくなるし、よほど初期パラメータが違わない限り追いぬいて、追いつけなくすることができる。だから、認識時間をより高速にすることが、成長の鍵なのだろうと考えている。

認識上の時間と記憶について

時間そのものではなくて、時間認識つまり、因果関係の記憶について。時間というのは、時間そのものではなく、ストーリー記憶として脳に残る。だから、何があってどうなったというのは、現在を起点とした記憶のデータベースを辿れるかどうか?というのにほぼ基づいている。人間が覚えるというのは、失敗したエピソードをここを失敗しては駄目だと記憶に残すものだそうだ。つまり、人間の脳は、失敗記憶のデータベースになっている。

さらに言えば、記憶というのは、当時のそのものの記憶ではなく、現在の想起状況に基づいて、再生されるらしい。つまり、想い出せば思い出すほど、それは変形変容してしまう。記憶に正しさはあまり望めない。

さて、何かをしようとしたときに、それをトリガーとして過去の記憶が引かれる。それは、成功体験かもしれないし、失敗体験かもしれない。いずれにせよ、その何かをしたものに似ている記憶が引っ張られるだろう。それは予測として働き、成功しそう、失敗しそうという未来を予測して、失敗しないためにこうするといった風に過去の失敗を繰り返さないための判例として用いられる。

これは、体験の類似検索を行なっていると言えるだろう。つまり、この類似検索の能力が上がれば、体験そのものをかさ増しすることができる。体験を増やしたからと言って、必ずしも成功するためのルートが見えるわけではないが、少なくとも以前してしまった類似の致命的な失敗はしなくて住むだろう。

体験の抽象化と、因果の抽象化

これはつまり、ストーリー記憶の抽象化を行って、規定のフォーマットをつくり、フォーマットが揃っているから、検索がしやすくなり、より多くの検索結果が望めるということだ。これは、あたかも体験そのものをたくさんしたのと同じような効果をもたらす。端的に効果を表すと勘が鋭くなる。

昔考えた、認識オブジェクトの標準フォーマットを作ることで、かなり認識速度が上がったように、少ない体験からより多くの経験を引き出すことができるとおもう。成長しない人を見ていると思うのは、体験をしても経験にしないで、同じ失敗を繰り返すのだ。そういう人がいると私は、怒れてしょうがなくなるが(あまり人のことは言えない部分ももちろんあるが)、そういう人はたしかにいる。人生が理不尽だと言って、理不尽と戦うのをやめてしまう人、無力の学習をしてしまって、理不尽を理不尽として受け入れてしまう人。

ここで仮定が出てくる。彼らは、学習出来ないのではなくて、類似体験検索でヒットしないだけではないだろうか?もしそうならば、彼らは個別の犬をみて、犬という種だと思えないだけで、認識自体はされているのではないか。つまり、抽象化して学習出来ないということは、体験を経験として積むことが出来ないのだ。逆に言えば、この類似検索=抽象性の向上が出来るのならば、1の体験を10の経験として認識することが可能になると考えられる。

さらに想像や、物語の記憶、他人からの話でも体験として、扱うことができる。物語や他人の話は、自分に出来ない経験を補うものとして大いに役に立つ。なぜ人間は寝ているときに夢を見るのか?というはなしで、あれは自分に出来ない体験を経験しているのだという説がある。今の私たちは、たくさんの物語を体験し経験にすることができる。時にして私たちは、選択肢を迫られる場合がある、その選択肢を選んだ自分、選ばなかった自分はどのような経験をしているだろうか?こっちを選んだから良かった悪かったの話ではない、どちらを選んでも成功させるためにはどうすればいいのか?という話だ。

また、仮定上では、未来にどんな自分でも想定することが可能だ。彼らがどうしてそうなったのか?想像し、妄想し、会話してみるといい。何を体験して経験したのかを、考えてみるといい。過去の自分も同じだ。私は、我々であり、お互いに学習することができる。なぜそんなことができたのか、なぜこっちの私が出来ないのか?なぜだ?どうしてだ?

私というのは、私で正しいのだろうか?個別の認識よりも、記憶同士のネットワークと捉えて、それの生態系として捉えたほうがいいのではないだろうか?意識というのは、仮想上の特異点だと私は考える。脳にはたくさんの並列処理システムが備わっている。意識だけで、考えるのはリソースの無駄遣いではないのか?なぜ、それを有効に活用しないのか?なぜ、不満を持ちながら、自分に問わないのか?始まりは全て、たいしたことのない馬鹿げた質問から始まるのでは無いのか?

なぜ、生きるのか?

この世界は、わりあい理不尽がたくさんある。私は理不尽と戦うための力が欲しかった。私の今の現状の多くのことが、ただの運で構成されていることに愕然とする。私は、多くに人に助けられて、ここまで来たことを知っている。私が、欲しいのはより多くの理不尽と戦うための、能力だ。失敗を成功にねじ曲げるための戦術と戦略と兵站を整えて、この世界と戦うのだ。この世界が楽しいと嬉しいと思えるのは、多くの人が楽しく、嬉しくしようとしているから、そう感じられるのだと思う。私もそのような楽しさとうれしさを提供できるような人間になりたい。

追記

20時50分に最終一つ前パタグラフ追記。
21時10分にさらに追記。