遊びというもの

遊びとは、もともと遊び方を探す行為であった。それをいつから、作られたレールの上でしか遊ばなくなったのだろうか?

型にはまらないこと自体が遊びであるのに、型にはまることでしか遊ばなくなったのはいつからだろうか?
テレビゲームというものが出来たとき、それはプレイそのもの、操作できるということそのものが遊びであった。しかし、いつしかそれだけでは満足できなくなる。そして、より高度なもの、それはシナリオであったり、システムであったり、きれいな映像であったりした。しかし、それでもいつしか飽きるものだ。

画面という出力、コントローラという入力が固定されていては、いつかは飽きるというのは当然だ。今のテレビゲームソフトは損益分岐点が非常に高い、それであるから流行に迎合し対象を最大公約数的に作ることが求められる。子供に出来ないようなゲームはそもそも対象を絞っているから、同じような作りこみ出会ったとしても損益分岐点を越えるような売り上げにならない。流行に迎合し最大公約数的に作れば、同じようなジャンルに同じようなキャラクター、同じような世界観ばかりのゲームになり、ますます飽きられてしまう。なんとも皮肉となっている。

飽きがこないための方法としていくつかの手段が存在する。それは入力と出力を増やすことだ。要するに自分との帯域を増やすことだ。

飽きに対する解決法

ある会社はそれを綺麗な映像に求めた。今まではそうだったから、という当然の理由で方向は決定してしまった。しかし、革新が同じレベルであったとしても、同じ革新がくれば飽きがくるというのは当然である。最初はそんなにコストがかからなかったことでも、革新を繰り返せば、いつしか誰も払えないようなコストがかかる様になる。コストがかかるようになれば売れると分かっているものしか出せなくなる。しかし、同じものしか出さなければ当然ユーザーは飽きる。

もう一方の会社はそれを入力の帯域を増やすことに求めた。それはある意味今までのゲームとは形が変わってしまう大きな賭けではあったが。ユーザの裾野は広がり、今までのゲームユーザでない人もゲームをするようになった。一方でノイジーマイノリティであるハードユーザは、そのことに納得がいっていないようだ。彼らにはゲームの進歩が映像がよくなることであり、ポリゴン数が増えることであり、データ容量が増えることだった。しかし、遊びの本質は型にはまらないことであり、ゲームという型にはまってしまった彼らこそ、実は今一番ゲームが面白くないのだろう。

もう一つの会社はネットワークとつなぎ入力を増やすことに求めた。これは、テレビゲームというビジネスモデルを変えてしまった。パッケージ型ゲームから、サービス型ゲームにしたのである。ユーザは入力が増え、いつもの定型の会話ではなく、生の会話が出来ることに驚いた。そして、コンシューマゲームとは比較にならないほどに、ハマル人が現れた。一日中遊び続け、「廃人」とも言われる存在だ。ネットゲームは差別化が非常に難しい。差別化をしすぎてしまえば、新規加入が少なくなる。差別化をしなければ、長くとどまる人が少なくなる。差別化の手段としても、技術、時間、運などがあるが、どれにしろ不満が存在する。
そして、定額サービスモデルから、基本無料、アイテム課金モデルなどが出来、手軽に始められる代わりに、収益分岐点が上がった。たくさんのゲームが存在するようになり、パイが増えないのにパイの食べ手が増えることになった。ゲームとコミュニティーサイトの境目がなくなり、ますますオンラインゲームというモデルが行き詰っている。これも簡単な話で、単に飽きたのだ。入出力を変えない限り、同じモデルでは飽きが来る。

さて、ゲームと他のメディアとを併用して帯域を増やすという方法もある。メディアミックスという方法だ。これも、ある程度は成功するのだろうが、ゲームはいいが、アニメがよくない。小説はいいが、ゲームがだめなど、品質を保つのに非常に難しい。アニメの人気をゲームで搾取するような形のゲームもよくある。よい方法ではあるが、難しいのが現実である。

ポータブル化という帯域の増やし方もある。ゲームできる範囲が広がれば、場所、人間関係とういう変化が現れる。結果として帯域を増やすという方法である。電話から携帯電話と同じ仕組みだ。これも成功する。運べるだけでなく、対戦などによってコミュニケーションできる道具として使えるようにしたのだ。これもオンラインゲームと同じように帯域が増える。

帯域を増やすという点におけば、麻薬やセックス、暴力、恋愛なども十分にゲームという範疇に収めることができるのではないだろうか?ただここでは論じることをしないが。

さて色々な方法で入出力を変えるモデルを見てきたが、これからどのようなモデルになるのだろうか?ゲームの向かう方向はどこなのだろうか?

現実との帯域

ゲームの中で所有するということが現実に無価値であるというのが、現実に対しての帯域がないということである。一方、ゲームで所有したことが、現実でも価値があるというのが、現実に対しての価値があるということである。この現実との帯域が問題となる。楽しければ楽しいほどそれに費やす時間が問題になる。そしてそれが現実との帯域のないモノであるならば、それはやればやるほどむなしいものとなる。それをしても何も意味がないのにレベルを99に上げるようなことだ。だからこそ、現実との帯域が必要である。

オンラインゲーム、ポータブルゲームは他のモデルと比べて現実との帯域を獲得している。例えば、アイテムを交換できるという方法、コミュニケーションにより人間関係の獲得などだ。現実に対して帯域が大きいほうが当然たのしいだろう。いくら貯めてもなんの得にもならないのはおもしろくない。

これからのゲーム?

現実との帯域が大きく、かつ入出力の帯域を増やすとどうなるのか。答えはオンリアルゲームである。現実の上のゲームだ。これではテレビゲームが出来る前に戻ってしまったが、答えはそうなるのである。外で遊べという話ではない。ゲームをなぜするのかという話だ。それは「現実」より「ゲーム」のほうが面白いからだ。ゲームより現実が面白くなれば、誰もゲームはしなくなる。現実が面白くないから、ゲームの世界で楽しむのだ。それを忘れている。

ゲームを面白くすることよりも、現実を面白くするゲームをしたほうが楽しくないだろうか?なんだって、今のレベルが低すぎるって?レベルを上げるのは得意じゃないか。第一、冒険したいんだろう?