世界はこんなにも汚くて汚れているからこそ、美しい。

ねもい。寝る。

よし、続きを書こう。

勘違いされてしまっては困るのが、汚くて汚れていることが、美しいということではないということだ。

理論的、かつ良心的な方はよく勘違いしてしまう。この世界は、良心で良心を返すような世界で、かつ理論がはっきりしていて、みんないい人だと。もちろん性善説をとるし、みんなが言い教育状態をとれば、みんないい人になるはずだと信じている。別にそのことが間違っているとか、気に食わないとかの話ではない。ただ、理路整然としていて、美しいだけの世界はどこかに物足りなさを感じる。どちらかといえば見たくないものは見ないような、印象を受ける。美しい、きれいだけでは世の中は埋まらない。

汚さの中の美しさ

そう、汚さがあるからこそ、美しさが際立つのだ。泥に汚れた、人と人との罵り合い、騙しあいの上に信頼関係や愛情などの世界があることが美しいのだ。どこかに理不尽さがあったほうが、美しい。
物語で考えてみよう。みんななかよく、品行公正で、何も事件は起きない物語と、表向きは仲がよいが裏では駆け引きがあったり、だまされたり、だましたり、罪の意識に苦しんだり、そっちのほうがおもしろい。現実も実際はそうだ。おもしろいから、とか美しいからということではなく、汚いものも確かに存在して、それがあるために美しいことがより一層映えるのだ。

あ、なんか昔読んだ国語の教科書に同じようなことが書いてあったなぁ。あれは「赤ずきん」に対する勘違い批評だったけど。