私という価値観

私とはなんだろうか?

「私」とはなんだろうか。「生きる」とはなんだろうか?
最近、疑問に思う。

別に、今の生き方に不満があるわけではない。
ただ、そのあり方に疑問を持つ。

「私」というネットワークであり意識であり無意識は、今いる環境の中で最善の最適値を探す。それは、生き残るため、生き延びるため、よりよく生きられるため。価値の全ての源となる、判断は生き残るのに優位か無為か。それが「好き」であり、「嫌い」。全ての価値は、生き残るというのを最上として、組み立てられている。それ以外のモデルも存在するだろうが、生き残らないため、結果として収束する。

また、「生きる」ということは、生きることそのものが目的化した、手段である。つまりは、目的の最終点である。他にもいくつか、手段であり目的であるものは存在するが、これは存続することを目的とした、つまり「有る」という状態を望み続ける目的点だ。

存在するそのことに、コストが発生する。どのような形態を取ろうとも、宇宙が永遠になくならないという保証が無いために、いつかは消える。あらゆる原子も半減期が存在し、消滅してしまう。「死ぬ」というのは、自己を消失するという状態だ。つまり、あったものが無くなる状態。

私たちが「死ぬ」ということは、私自身の価値を失うことになる。でも、生きていた証、つまり他人に与えた影響、子供、などにより、生きていた状態を残すことができる。つまり、「有る」という価値を保持することができる。だから、自分の存在しないことを受け入れたものは、安心して死ぬことができる。

でも、その価値を保持する意識自体がなくなってしまうので、それに意味は無いのだが。無くなった後も意味があると、信じる以上の意味は無い。

生物としての無の恐怖

私たち「生物」は、生存できないことを恐れる。おそらく、あらゆる価値観が可能性としてあるならば、それ以外の価値観を持っていた「生物」を生存競争で打ち負かしたのだ。私たちは「存在する」という共通価値観を持った複雑系郡なのだ。それが、生き物であり、それ以外が無生物である。無生物だとしても、「有る」という概念から抜けることはできない。

宇宙が生まれたとき、あらゆる可能性とあらゆる論理があったとしたならば、そのときに勝った可能性と論理が今の「有る」という概念だろう。有り続けるという可能性が、宇宙を支配した。これも3次元的な見方に過ぎないが。時間軸を空間軸と同列に扱うならば、「有る」と「無い」を共有しているというだけになる。

あらゆる論理空間に広がる、あらゆる可能性と空間、時間軸。論理空間は、非論理空間までを取り込み全ては「有る」と「無い」を共有する。なんだか仏教的な世界解釈になったけれど。そこでは、有るという価値観は、ひとつの考えでしかなくなる。「有る」ことと「無い」ことを同列に扱い、あらゆる価値観、物事が存在する/しない。その上、その上位は存在する/しない。

個人的な価値観と自殺

また同様にして、思考空間にも、同じようなカオスが存在する。有る程度、生きる本能に左右されるとはいえ、「生きることを保証されて」しまえば、本能を無力化させることができる。要するにどんな考えを持つのも自由という訳だ。思考は、それ自身のインフラを破壊するようなこともできる。つまり、物理的媒体の破壊ということだが。また、何代も引き継いだ思考を取る訳ではないので、生きる方向とあるていど逆らうことができる。要するに、行き着く先が「生きる」価値観を増やすような方向でないということ。

先日の柳沢大臣の発言「女性は子供を生む機械」に類する騒動で、特に社民党の発言を聞くと、私たち(日本)は死にたいと言っているように聞こえてしまう。女性の女性性を否定し、生きるのは自由だと、出産も選択できるとフェミニストは言う。

まぁ、確かにその通りだ。自由だ。別に誰も強要しない。ただ、長い目で見ると国が潰れていくだけだ。国策として、あまり上策ではないのは確かだろう。自殺したいのでなければ。

確かに、先進国になるにつれて、子供の出生率は下がる。それは教育費が非常にかかるからだ。さらに進めば、日本のように人口が減り始めるだろう。発展、つまり群の中の個が発展しすぎてしまうと、群の制御が効かなくなり、結果として、弱くなる。でも、アメリカはそれほど、出生率さがってないんだよな。

我々は群として、生きなくて良いほど、発展し、また多様性を獲得した。獲得した先に待っていたのは、群と個の利害の不一致だ。ダイエットしすぎて栄養失調みたいな話だ。そんな訳で、どうしよう。

個と群の軋轢

今までの話をまとめるとこうなる。

生きるという持続性:全ての価値観の源
私:群であり個、個とみなす最小単位

そして、個が発展しすぎると群と個のお互いの利益が不一致するようになる。それはがん細胞のように、優れた社員のように。政治家は、群からみた個の軋轢を最小にする、かつ群の移行を実行する役割。マスコミは、トップの動きを個に伝達。群の発展は個を豊かにし、個も発展するが、個が群に反発することがある。個の消失を恐れる必要が無くなったためだ。

また、一元世界に持っていくのは簡単。生命の危機を煽ればいい。例えば、戦争。敵国を作ればいい。悪を作ればいい。これはアメリカ式か。

多様化してしまった世界を元に戻すのは、ほとんど不可能。相当強い力を使って無理やりやれば可能だが。これが中国。

日本は、基本的にほっときっぱなし。本当はどうにかしたいんだろうけど。かつての敗戦が、強い強制力を失わせ、正義という思い込みを失わせた。

そのため、結束は強いような弱いようなよく分からないポジションに。倫理さえ通れば、国が滅んでもかまわないと思う人々。国が滅ぶなんて考えられない人々。正義が全てを超越すると考える人々。一件、正しいように見えるが群からみると悪でしかない。個での正義と群での正義は違う。個は責任は自分だけで取ればいい。罪を犯したなら、それ相応の罰を受ければいい。群はまだ、法整備が進んでいない。こうした方がいいというレベルの集まりが有るだけだ。基本的に小学校のときと同じやりたい放題だ。殺すのも、奴隷にするのも自由だ。個と群を同列に扱うのは、間違った考えという事はあまり知られていない。

群から見れば、自己の持続性を失わせる芽。芽は早めに摘む。世界市民といって、存在しない個を誇らしげに語る人々。外宇宙からの敵でも来ないと、結束する事はありえない。リソースが不十分かつ、不安定で有る以上。同じ、牧草地を使う村と同じ。みんなのもので有る以上、一番使ったものが有利。ただ、制限無く牛に食べさせすぎると、やがて牧草地は枯れる。そして、群としての死。

群の制御::強制or自発的

強制をするのでなければ、自発的な結束が必要。おそらく、簡単なのは生命の危機感を煽ること。そして、誘導、軟着陸。

急成長は恐ろしいほどの、成長痛を引き起こす。バブルは、10年以上も経済的な停滞を招いた。そして、なにより明るい展望(幻想)を失わせた。

これから望むのは、有る程度(1〜2%)の経済成長と少子化に伴う過度なダイエットの激痛の軟着陸。そして、他国から自国を守りきるだけの防衛力。

望まれる個は、非常に生産性の高い、又はコミュニケート能力の高い性の個。生産性は、コンピュータネットワーク群を使った、自動化に積み重ねた自動化による生産性。高いコミュニケート能力は、個と個の性能を最大限まで発揮させる。

EUのように、国を個とした群を組めたらよかったのだろうが、周りはこちらに好戦的。ちょっと離れたところには結構友好的な国は多いのに。まぁ、近くの国とは仲良くないのが当たり前。

国と国の相互関係はまだ、強制力を持つ上位組織ができていないために、基本的に無法。上位組織ができたとしても、その上は無法。いつまで経っても、それは同じ。

私という形の変化

以前は「家」が私だった。家さえ生きていれば、私個人がどうなろうとも、基本的にどうでもよかった。これは、比喩ではなく、文字通りそのままだった。もちろん守るべき「家」が無ければ、そういうようなことは無いが。

つまり、「家」としての個が存在し、それぞれ「家」ごとに生きていたともいえる。郡が個としての、個性を持っていたと考えられる。もちろん、個人的な個も存在したのだろうが、現在よりも生存条件が厳しいため、淘汰が激しかったのだろう。


・・・途中で少し空き・・・

と途中まで考えていたら、複数の物がヒットした。

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あ、なんか同じような事考えてるなと。

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個を失って獲得したものはなんだろうか?
また個を失うとは。