知る事と作ること、人間の定義

何のために知るのか

昔は、知っている事自体が一つの価値だった。覚えるのにはコストがかかる。だから、たくさん知れば知るほど、それは人間社会で価値として認められた。そして外部記憶装置が作られ、メディアにより知識は伝えられるようになった。活版印刷によりメディアは安くなり、一般大衆に知識が広がった。そして、コンピュータが生まれ、エラー無く、覚えて置けるようになった。もはや、ためておけばそれを探すコストは減った。インターネットが広がり、価値を求めて、価値を公開するようになった。

世の中の殆どの情報は、検索する事で調べる事が出来るようになった。知るという価値は劇的に下がった。ただオンラインであれば、それを知らなくても知る事が出来る。知る事は、覚えることで、価値の競争を渡る事は出来なくなった。

理解は何を生むのか

知る事の価値の次には何が暴落するのか。それは理解だ。解析分析をする能力は、10年以内にコンピュータによりかなり補助できるようになるだろう。自動で解析分析し、勝手にまとめ、価値を探し、整理してくれるようになるだろう。

理解する能力もまた、暴落する。本当に上位の最先端の理解以外は、殆ど価値を失うだろう。現在の知ることがgoogleで検索をするのと同じくらい簡単に理解できるようになる。

作ること

理解した法則を作ることこそ、まだ残された聖域だ。作ること以外の価値は、とことん落ちてしまう。作ることこそ、知る理由であり、理解する理由だ。私たちは、より価値を構築するために知り、理解をする。インターネットによる知ると理解のフラット化は在る意味、電脳世界がそのように成長しているように見える。見えるわけではなく、実際に成長している。

作るまで、インターネットが成長してしまったら、私たちは何をするのだろう。ただの下位レイヤーとして、上位レイヤーが成長していくのを見ているだけなのだろうか。それとも意識ごと上位レイヤーに引っ越すのだろうか。おそらく両方するのだろう。ようするに、人間の定義が分かれると思う。

定義は存在範囲を規定する

定義というのは、殻だ。外骨格だ。内部は殻に合わせて成長し、そのような形を取る。限界まで成長すると、殻を脱ぐ意外に成長する事が出来ない。人間の定義が限界なのではないだろうか。宗教が哲学が科学がその時代ごとに、少しづつ人間の定義を書き換えてきた。次は技術が、外部神経組織=電脳が人間の定義を書き換えるだろう。しかしそれは全体を書き換えずに、階層社会になるだろうと思う。移行者と非移行者で、違う存在になるだろう。移行が3段先くらいになると、おそらく意思の疎通が出来なくなる。私たちが細胞の気持ちがわからないのと同じだ。

さて、人間をどう定義しようか?