認識世界という物語

久しぶりに書いて、反応を頂いてありがとうございます。
私は、反応が貰えるから、関係性が築けるから生きていける。
こんなにも情けなく、恥ずかしい「私」を、認めてくれてありがとうございます。

認識世界と関係性

認識できる世界が生きる世界の全てである。だから、私たちは客観的に見ると閉じた世界で生きている事になる。私たちが交流している考える事は、交流しているという錯覚に過ぎないのかもしれない。私たちは認識する事でそれを世界に配置する。観測される事でそれは他の世界に出現する。

人間は関係性の生き物だと言うがまさにその通りなのだろう。少なくとも「私」は関係性の無い空間で生きる事が出来ないと痛感している。私たちは、自分のためだけに力を使う事ではそれほど満足できない。関係性を持った人たちのためにする事ができることの方がよっぽど嬉しい。それは私という存在理由が満たされるからだ。私という存在が居ていい理由が出来るからだ。

私たちは単体では弱い。社会的生物だというのは、伊達ではない。存在意義が無いまま生きる事ほど、辛く厳しい事は無いと思う。別に全人類に奉仕したいとかそんなのではなく、周りの人、観測できる範囲、認識できる範囲で幸せであって欲しいと願う。

インターネットによって、観測範囲が増えてしまった。大人になるにつれて知り合う人は増えた。皆幸せでいいと思う。競争なんていらないと思う。私たちの存在意義はなんだろうか。人間の存在意義はなんだろうか。世界の存在意義はなんだろうか。

答えは認識世界ごとに違う。その存在意義は少しでも喜ばしいものであればいいと思う。

世界は美しく、人は優しい。そんな世界を私は観測する。