カオスから制御を切り出す

私たちはなぜ理解をするのか?

私たちはなぜ理解をするのだろうか。物事はあるがままでいいではないか。全てなにがどうで終わり。名前も付けずに、私と私以外も区別せずに、あるがままを生きる。きっと素晴らしいなんて思えないくらいに素晴らしい体験のはず。おそらくそこに対象も主体もぞんざいしないし、たまたまこうなった以外の理論はそこには無い。

私たちはなぜかそのような観測を選択しなかった。でも、実際に今いる世界は、取りあえず何か起きる世界であって、何かがとりあえずおきるだけの世界だ。そこには原子一つとして同じものは存在せず、細胞一つだって同じものは存在しない。全ての事象が個性を持っていて、それとそれが同じだとは認識できない観測。観測精度を高くするというのはこういうことだ。

そして、理解とは観測精度を低くする観測方法である。それはある事象の個性を排除し、他の似たものとそれを同じものとして扱うということだ。私たちはそのような観測方法を用いて、あるがままに見ることはしない。我々が人に会うときは、認識イメージが視界に上書きされる形で、意識をする。世の中は同じもの同じ人、同じ日なんて無いのに、それを同じものとして扱う。いや、同じものとして信じる。

認識をしない世界はカオスである

認識を行う前の世界は、カオスだ。そこには秩序は存在せず、ありとあらゆる物事が、さらに同じ対象でも時間が経てば違うものとして扱われるのであれば、それは完全にカオスな世界になるだろう。それは今いる世界と認識方法を変えただけであって、いる世界は同じものなのにも関わらずだ。世の中はカオスである。しかし、私たちはそのあるがままの世界を加工してカオスではないと信じている。

私たちが、世界を近似してみている世界は、秩序が存在すると信じている。実は秩序は存在するものではなくて、観測、認識するものであるという事が分かる。世界の法則は、世界の創造主が作ったのではなくて私たちが頭の中で考えて信じているだけなのかもしれない。ましてや、正確性を欠く認識法を使いTOE万物理論、または大統一理論)を作ったところで意味は無いのかもしれない。

まぁ、その認識法に物理的再現性という制限枠を与えて、普遍的に使えるようにしたのが科学ではあるが。全ての原子が違うことを認識したら、おそらく科学は作られなかったのだろう。

認識とは何のための近似なのか?

認識とは何のための近似なのか。それは、制御のためである。カオスを可制御とするためだ。そのために私たちは、認識をしている。認識の目的は制御である。そうすると、猿が認識を覚えて人間というより、制御力が強い存在が生まれたのも納得だ。より、制御力の強い方が勝つし、制御の競争に敗れたものは、進化前線から遠ざかり進化を止めてしまう。

というわけで、人間はより制御力を高める方向に進むであろうし、オブジェクト化(つまり対象として認識を持つ)、レイヤー化(オブジェクト同士が干渉する層を認識する)という方向は、より制御力を高める方向であるといえる。

カオスから制御を切り出し、我々は今の状態を勝ち取った。更なる未知のカオスを切り取り制御をしていこうではないか。