最適化前の道徳

TOEの続きを書こうと思っていましたが、残念ながら、読者アンケートで一定数の得票を得られなかったので1話打ち切りとなりました事をご了承下さい。

道徳の役割と意味

道徳を作っていたもの
「よかった昔」が持っていた道徳という考えかたは、おそらくは村社会の嫌な部分、 見たくなくても見えてしまう隣近所のプライバシーであったり、何をするにも ご近所の迷惑を考えないと自由に振舞えない社会であったり、そんな「強すぎる絆」 という環境に社会が適応した結果として出来上がった表現型。

みんなが比較的自由に振舞っている現代と、ある種の人たちが「よかった昔」として懐かしむ 昭和40年代と。人同士を結ぶ絆というのは、時代と共に浅く広く変化していったけれど、 その変化はおそらく、そんなに劇的なものではなかったはず。

それはごくわずかな気温の低下が恐竜を滅ぼしたのに似た歩み。 道路が良くなって、選択の余地がなかった村の病院が、 車で行ける範囲なら4つぐらいから選べたり。通信が良くなって、新聞読まなくても ラジオやテレビで代用できるようになったり。

選択の幅が広がると、刺激の強いニュース以外は注目されなくなってみたり、 技術にはサービスという負荷価値つけないと怒られるようになって。 社会のいろんな場所で、こんな微妙な変化がゆっくり進んで、 そのうち誰かの変化は、別の誰かの変化を加速するようになって、 変化の積み重ねがある閾値を越えたのが、おそらくは誰かが「昔はよかった」なんて ぼやきはじめた頃。

http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/09/post_542.html

道徳の訳に立つ世界と、立たない世界がある。それは、動的変化をしているか、していないかによっておそらく決まる。道徳というのは、心の規範となる型のことだ。道徳力の働く世界は、それを信じそれを目指して進めばいい。それは、一通り最適化が完了した世界であって、あらゆる道をすでに先人が歩き、一番社会的評価の大きい道が、道徳として配られる。素晴らしい感動や、あるべき姿、成し遂げた達成感と共にそれは社会中に感染する。

そうすると、みんなそれを目指すから、一通り固定された静的社会の完成だ。これは目指すべき素晴らしい世界で、ある意味完成形とも言える。しかしこの均衡もずっと続くわけではない。

あれだけ栄えた恐竜が滅びたように、あれだけ竹の子のように生えたマークアップエンジニアが滅びる予定のように。いつかはその栄華も終わる。それは、その静的世界の前提条件が変わるためだ。

静的世界の破滅

例えば、隕石が振ってきたり、例えばライブラリ、テンプレートによって省力化されてしまったり、例えばインターネットによって、今まで繋がりえなかった接点がたくさん出来てしまったり。

そんな理由で、道徳が支配する静的世界は閉じる。そしてやってくるのが最適化戦争だ。これは取りあえず熾烈な血を血でぬぐうような戦争だ。しかも、それを道徳で訴えてみたって意味が無い。そこはすでに道徳に支配されていない世界なのだから。

最適化戦争は、最適化が終了するまで終わらない。例えば1強の世界になったり、2強、3強かもしれないけれどある程度の数が間引きされて強いものがより強くそして、力の均衡が起きるまで続く。

動的世界のルール

動的世界では、競争が起きるために適者生存が発生する。動的世界に乗じて、パイを奪うか、当たらしく焼くかしないと生き残る事は難しい。

動的世界もまた、道徳とは違うルールが働く。これも生存ルールの一つだ。これはまた、頭の中で前提の変化したときにも発生する。知的地すべり現象とでも名づけてみよう。一つの前提が覆る事で、上に載っている全ての知識がひっくり返ってしまう。そしてこれは意識に上るごとに自動変換される。

この自動変換の時期は、実はかなり面白かったりする。知的好奇心を物凄く満足させる事が出来る。知的変換というものは、非常に楽しい。

たぶん、頭の中の情報にとって見れば、恐ろしい事なのだろうけど。上のレイヤーの主体は楽しいから進めてしまう。下にとっては地獄だろうけど。

そんな訳でハードウェアの改善(技術的発展)が、まだ続くでしょうし、ソフトウェアの発展(文化)もあるでしょうから、しばらくは社会的に動的なままなのだと思われます。真打ち格差社会の登場です。

会社はサバイバル術を覚える必要があるかもしれないですね。