社会的関数の実装

なんか久しぶり・・・。

言語実装としての関数

言語は、使われる人々によって実装される。よって時代によって、レイヤー(実生活空間)が変わってくるので、言語も少しづつ変化をする。例えば携帯電話による絵文字の文化や、2chでのAAなど、現実で会話として使えるわけではないが、新しい表現としてどんどん取り入れられている。

そして、新しい機能のものが出てきて一般化すると、それは動詞化される。例えば、googleでは「ぐぐる」という検索するというよりもっと直接的な動詞が実装された。「やふる」はそれよりは、マイナーだろう。

アサヒる ←New!!

そして、つい最近新しく動詞として「アサヒる」がエントリーされました。日本の輝けるWeb2.0ということですね。<<参考>>アサヒる

まぁ、そこは置いておいて。
アサヒる」という動詞は何を実装したのか?捏造する、煽り立てる等の実装はすでにあったにも関わらず、なぜここにきて再実装されたのだろうか?

アサヒる再実装による可視化

動詞として実装されたということは、それが言語的に不可視状態から可視状態に移るということである。言語として実装された機能は、キャズム(普及のための壁)を超えて一般に普及するようになる。

今回実装された可視化は、レイヤー間力。レイヤーの層同士の相互作用力。

情報戦争において、何が一番怖いのかといわれれば、情報の不可視、情報の前提化である。これは社会的に認められていない方向に向くと洗脳だが、ベクトルによっては教育と言われる。メディアの洗脳力の強さこそがこのたび「アサヒる」として可視化されたのではないか?

メディアは、「花形ヒーロー」から、今や「悪」という役割に変わってしまった。これはなぜなのか?アサヒるという今までの嘘を着いていたことがばれたのも問題ではあるが、メディアが繁栄するベクトルと情報界が発展するベクトルがズレテしまったからだ。より良いメディアが普及し、より新しい社会が築かれる。

手始めに「新聞」がばっさり切られるだろうけど、どうなることやら。あとニコニコテレビとかあればいいのになー。あ、NHKは流れなくていいです。