現実認識を仮想空間として理解するとき

現実の認識は鍛えられたいい認識だ

ドクター苫米地の新・福音書――禁断の自己改造プログラム

ドクター苫米地の新・福音書――禁断の自己改造プログラム

数冊を読んで大分理解は重なった。

認識外の現実は、認識されて現実認識となる。現実認識は、臨場感を持って現実という物として感じられる。一方そのほかの仮想空間は、臨場感を感じる訓練が足りないために臨場感は一定以上に上がらない。

現実も仮想空間の一番鍛えられたものだから、他の仮想空間も鍛え上げれば同じようになるはず。そして、抽象化された仮想空間ならば、現実を離れて別の感覚を加工できるはず。

無意識でもホメオスタシスでもいいけど、生体の安定装置が強力に「変わる」ということに関してロックをかけている。だからこっちを変えれば変わるという理屈らしい。

抽象化による共感覚

だから、現実はそう簡単に上書きできるものではなく、上書きをしたとしてもそれはすぐに戻ってしまう。しかし、現実の認識の上、それらが抽象化された空間ならば自由に加工できると。

ネイティブな共感覚者は、おそらく現実認識が混じっている。一度、現実認識が構築されきってしまった以上、そのチャンネルを変えることは出来ない。しかし、抽象化された認識空間ならば感覚の多重化による臨場感の増加が可能らしい。

あと、やはり人によって優先感覚が違うらしいので、そこから強化するのがいいらしい。自分の場合は、触覚と。

触覚の強化

今まで使った感覚記憶を強化して、それを抽象化記号化する。そしてそれを自由に扱えるようになって、その感覚による自己暗示(洗脳?)を使うという話だった。

とりあえず、寝る前に共感覚化の訓練をしてみる。ドーパミンががんがん出て、頭が痛くなったり、なんだか睡眠時間が増えたり、視覚から触覚を少しだけ感じるようになったり(梅干を見る⇒唾液出るみたいに)。とりあえずまだこんな感じ。

続けてみましょうというお話。