理解と説明のコスト

いつの間にか、書くときのインターフェイスが変わってる。こっちの方が楽だな。と思ったけど深いことを書くときは、前のインターフェイスの方がらくだ。

マイナーである所から、話は始まった

生まれてこのかた、ずっとマイナーだった。多数派ではないという意味で。日本の文化は基本的に少数派を、絞るだけ絞り、たたくだけ叩く。多数派であることが、勝利条件であり、意見の正しさなんて意味が無いと思っていた。

だから、印象論で感情を煽ったほうの勝ちだと思っていたし、意見なんて政治力でのパワーゲームが全てだと思っていた。理解をされないことが基本で、自分自身が多数派の偽りの皮を被って(すいません被れてないです)、いかに波風を立てずに親しくなれる人を捜し当てられるかというゲームだった。

高校、大学と進むにつれて、メジャーが無意味にマイナーを叩くという構造が、少なくなってきたので自分を出す場所も増えたが、人の目に晒されるということが、イコールとして無意味に馬鹿にされるというような構造に頭の中が結線されていたので、相変わらず、中身を出さず飄々と何を考えているのか分からない。「変わった人」としてのキャラクターで、接せられることが多かった。

確かに自分でも変わっているとは思うし、メジャーではないことは確かだ。その部分は、別に嫌いだとも思わないし、なんとも思っていないのだけれど。問題なのは、人格シェルにおいての、理解されなくて当たり前だから、「説明のコストを払わない」という部分。

言い訳も説明もしない

趣味も嗜好も夢も立場も違うのだから、説明したとことで理解されないだろうと自らの手で説明を断ち切る。その習慣は、物事が悪くなったときに最悪な振る舞いをする。失敗したときに、言い訳はしないということは、その人の自分に対しての印象をさらに歪ませ、理解とは逆の方向に物事を運ぶ。

思い出してみると昔の昔に考えていたことは「恥ずかしい」だった。めんどくさいとかではなく、マイナーとばれることが恥ずかしかった。本当に小さいころだから、理由とかはどうでもいいんだけど。恥ずかしいから、説明も言い訳もしなかった。人が怒っているときは、とりあえず謝る。それは言い訳するのがめんどくさいとかではなく、言い訳や説明が恥ずかしいからだった。

何で、「恥ずかしい」という感情にこんなにも支配されているんだろう?1対1なら、別に恥ずかしくないが。理由なんて昔過ぎて意味が無いだろうし。とりあえず感情の上書きで何とかしておくか。