言論の制御と社会的利益

コメントの返事遅れてすみません。

言葉狩り著作権

なんか、左翼の言葉狩り関連の話が、著作権と発言の自由の話と似ていて面白い。
一般的な話の流れとしてはこんな感じ。

A:発言は自由。これは憲法で定められている。

B:自由な発言には傷つく人がいるから制限しろ。

A:傷つく側のことを考えたら何も話せない。(どんな人がいるのかわからないから)

B:基本的な常識で考える範囲で、傷つかないように発言を制限しろ。

A:常識の範囲の厳密な規定は難しいから、不可能。現実的な解としては、受け取り手側でフィルタリングしてもらうしかない。

B:極論を言うな。ガイドラインを決めて、その範囲で発言しろ。(言葉狩り

自由な発言=アップロード
発言を受け取る=ダウンロード

問題は、何が目的でそのような社会的制御を行うかだ。規定する法律を定めるにしろ、自由にするにしろ何らかの意図と目的が存在する。

言葉狩り側の目的は、傷つく人がいない社会にすること。発言の自由側は、言論の発展だろう。人が傷つくというのは結局社会にとってミクロであるから、社会から見ればそれほど重要ではない。一方、言論の自由はミクロから見れば一部不利益(傷つく)がありながらも、社会全体から見れば利益が出て、それがミクロにも還元される。

2chなどの、無制御な生言論にこれだけのエネルギーがあるのもこの理由なのだろう。制御されうるフォーマットは、よほど巧みに作らなければフォーマット以上のことができない。

視点の共有と矛盾の内包

マクロ(社会)の利益と、ミクロ(人)の利益が対立することなんて割りと普通のことだったりする。というよりも、マクロよりミクロの方の多様性が明らかに多いからそれは当然だろう。すべてのミクロ(人)が納得するような法は存在しない。

例えば、戦争論にしたってそうだ。ミクロの利益がマクロの利益かといえば、明らかに違う。マクロ(国)の利益は明らかに勝つことだ。しかし、それはミクロ(人)には、死というリスクを負わせ、勝ったときには利益を還元し、負けたときには損失が生じる。国からすれば、人一人のの不利益は仕方がない。喧嘩するときに、細胞ひとつの生死を理由に殴ることをしない人はおそらくいないだろう。

マクロ(国)のリスクは明らかにその中のミクロ全体に強い影響を与えるために、ミクロの不利益には目をつぶらざるを得ない。しかし、ミクロ(人)から見ると「勝手に戦争なんて始めやがって、人が、知り合いが死ぬじゃないか!ふざけるな!」という風になる。ミクロだけから見た視点だと、「国はみんな仲良く暮らしましょう。喧嘩なんてする必要がありません。」となる。

日本社会がある程度平和であることを維持できるのは、その上位機関である国が、法律によって制御しているからだ。しかし、それを忘れて、国同士も喧嘩をしないでとミクロとマクロを同列に並べるのは間違っている。国同士の社会、国際関係は絶対上位機関が存在しない村社会だ。しかも、みんな持っている文化が違ったりする。喧嘩しても、強い番町にはなんのお咎めもなかったりする。そんな中で只の「みんな仲良し論」を出されても苦笑するしかない。

どんな問題であっても、相手の立場や思考を理解しないままに、否定をするだけでは、パワーゲームになってしまう。論理による殴り合いだ。純粋な平和主義には、論理的に殴り合いを好む人が多いからなんだか矛盾している。国の立場を想像できないというのは、只の不勉強と想像力の欠如としかいいようがない。

この宇宙にも矛盾はある

最後まで拡張すると、「この宇宙にも矛盾はある」ということになる。ゲーデル不完全性定理によって確認されている。というわけで、矛盾は認めましょうというお話。矛盾があるから発展もあって、死も喜びも悲しみもある。すべてが存在するのは、あらゆる可能性からの分化だった。

すべての可制御空間(無矛盾空間)は、あったとしても何も生み出さない。何らかのものが生まれるためには、矛盾を含む空間が必要だった。