幸せな世界って何だろう

あ、タグは木思考とか森思考は、構想だけでネイティブではないので、まだレイヤー思考。

ちょっと思考

幸せな世界って何だろう。例えば、天国とかゲームの世界観とか。現実の向かう先の理想の世界とか。そんなことを考えてる。例えば自分に世界をチートする能力があったりするとこを妄想。たぶん、自分のために何かをするのはすぐに飽きる。次は人のためだったりするわけだけど。それも飽きると、たぶん次は制限をかけるだろうなと思う。

例えば、感情とか感じる心自体を制御できたとしたら、其れはもはや心ではない。静的なシステムの一部か、カオスに飛んでいってしまう。意味も無くドーパミンが死ぬほど出たら、人は何もしなくなる。何もかもの意味が無くなり、何でも出来る代わりに何をしても意味が無くなる。

世界の神様という位置と、自分を完全にコントロールできるというのは同意義で。なってみる前から思うのは、面白くないなということで。だから、万能な神々は逆に凡な人になった。

論理空間をいじる

べたの人間というものにも、もちろんいいことはたくさんあって。完璧じゃないから、悩む余地も有るし、悲しむ余地も、喜ぶ余地もある。悲しみも絶望も痛みも喜びも達成感も、全ては全ての物事において私の内側にも外側にも世界が存在するからだ。

単一層の世界感では、探求も物事の達成もすぐにやりつくしてしまう。つまり、可能性の余地が少なすぎる。この世界の階層構造が上にも下にも続いているからこそ、そしてそれを構成する一員であるからこそ、世界は面白い。

人間というのは、可能性を埋めて行くための暇つぶし装置。そこに意味なんて、上位層から見た意味なんて、構成物と可能性の多様性という意味しかなくて。本当に神様みたいな存在があったら、人間なんてなんとも思っていないはず。自分たちが個別の淡白質をなんとも思っていないように。たぶん話を聞いてみると「え、個性なんてあったの?」というくらい本当に何も考えていないはず。

ま、プログラマー気質の神様だったら、この「人間のこの動きがたまらない」とか自己プログラムできる最小構成要素としてカウントしているのかも知れないけど。

そんな訳で

たぶん人間以上に人間のことを考える層は存在しない。上位の層を、妄想して責任とか色々なことを権限委譲したって、実は何も生まれないですね。ということで、自分で考えて、理解をして責任を取りましょう。

思考であり、理解は認識をより上位の認識として構成するものとして発生した。人間と認識構成体は非常に良く似ており、より可能性の隙間を生めるための装置として働いている。そして、その行為こそが生きるということであり、思考そのものというわけだ。