論理空間からの視点とイメージ化による現実の重ね合わせ

久々に思い出す。

複数の「心」を許容するためのイメージ「森」

人格であり、原動力、心の状態を保存する器を考えてみた。その結果はどう考えても、言語の限界を示すものだった。言語には明らかに限界がある。それは単一の直列の細い思考帯域しか持っていないからだ。オブジェクト思考やレイヤー思考のときもそうだったが、思考が進むにつれてイメージ化の割合は増えていく。言語処理では間に合わないために、イメージで処理をする事になる。

インターフェイスとしてのイメージ

現実感を強く持って、情報の可視化を行えるならばそれは、新しい別の感覚となる。それは速度を速度計としたように、特定の情報を意識に上げるのに役に立つ。

今自分が考えているイメージは「森」だ。認識構造体の森を現実に重ねてみる事を考えている。人はそれぞれ「森」だ。木は一つの視点によって構築された複数レイヤーの視点だ。それがいくつも重なって森になる。その根っこは親から教師から、テレビから本からインターネットから情報を吸い上げ、新たな論理認識構造を構築していく。イメージと言ってもそれは完全な3次元イメージではない、認識構造上のイメージだ。論理認識上から「現実」と呼ばれる世界をみると酷くゆがんでいる。それは距離が適当で、ルールが多く、制限が酷く多い。

だから、作るイメージは論理構造上のメタイメージとして「森」をイメージする。自己ネットワークとしての森は例えば、このブログのこのエントリーを介する事であなたの森と接触する。そしてそれはお互いに木の種を交換したり、時には交配も行われるだろう。あなたの森がどれだけの種類の木を維持できるのかによって、おそらく反応は違う。馬鹿げた話だと思い、切り捨てる人もいるだろうし、この種を育てる余裕のある人もいるだろう。刈り入れをすることで、綺麗な森にする人もいるし、何もしないで雑多な森にする人もいる。その森を決めるルールがあなただ。

論理空間は現実的な距離に寄らず、帯域と心理的距離によって構成される。次元は3次元より多く、3じげんより多くの構造を保有できる。だからメールとか携帯とかブログとかで、用意に論理的な距離は短くなるし干渉するようになる。インターネットは情報のバイパスであり、論理空間からみるとまさに神経系となっている。新たな比喩は新たな視点を作り出し、より豊かな認識木を作り出していく。

なにか致命的なことを書き忘れたような気がするけど、もう少し進めば思い出すような木もするし。