論理思考の破棄による学習法

プログラムの論理思考の破棄によるスピードアップに成功したわけだが、一般的に使えるものにも普通に使えることがわかったので書いておく。

論理思考の破棄

論理思考と書くとわかりにくいので、言語思考と書けばわかるだろうか。頭の中で考えているという状態のあれだ。
「〜が〜だから、○○を〜する」みたいな思考のことだ。学習している最中に思うとしたらこんな感じになる。
「〜が〜で、〜が〜。それで、なんでこれがこうなるのか?意味がわからん。そして、疲れた」こんな感じ。

これをしなければ早くなる。読書の際に、頭の中で音声を再生させるとものすごく読書スピードが遅くなる。これと同じことを他の知的活動においてやっているということだ。勉強だろうが、プログラムだろうが、言語思考を捨ててやってしまえば、スピードは3〜10倍、疲労は1/3くらいになる。優れた学習能力がある人とかは普通に実行していることなのだろう。それは読書の言語の破棄が誰でも出来ることを知っているから。

あれは言語を読んでいるにも拘わらず、一枚フィルタを通すことで、意識が受け取るのはその内容イメージのみになる。これは、訓練さえすれば誰でも出来ることで、別に特別な能力ではない。これとまったく同じことを他の分野に使えばいい。やってみるといいよ。案外普通にできるから。

自分の定義の拡張

意識というのは、自己の中でもかなり狭い範囲であるということが実感できた。意識内で検索すると、ものすごく遅い割りに検索精度が低い。忘れやすいし、正しいのかどうか微妙に自信が無かったりする。でも、もう一段下の無意識に検索させると高速かつ、自動検索を行い、自動構築をしてくれて、さらに忘れるなどということが少ない。あれ、今まで何をしていたんだろうと思う。

必要なのは、権限委譲。任せるからには信頼して、情報を渡す必要がある。本当に大丈夫?とかいや信用ならんとか考えているとそれが反映された結果が返ってくる。意識はなるべく働かせないほうがうまくいく。それに、なんか頑張ってやるかんじでもなく、どちらかというと力をぬくイメージ。

無意識での学習、出力をするようになると、ほとんど情報を一度見るだけでそれを承認することができる。意識の上での学習でよくあるのだが、これわかるの?とか難しいすぎるとか忘れそうとか考えていると、何度も反復しないと覚えられないという状況が発生する。でもそれって、意識で覚えることを拒否しているわけだ。実際は、1度見ればそれは理解はともかく受け入れることは出来る。なんか「頑張る」とか「集中して」とかそういうものが遥か向こうにすっ飛んでいく。今まではなんだったんだろう。

意識すること

論理思考の破棄の学習での注意点として、「自分の書き換え」ということがある。自分の情報、つまり感情とか、記憶とかそういうものはほとんどにおいて書き換え可能である。それは出来ないと思っているから、出来ないに過ぎない。普通はやろうと思わないのかもしれないけど。そういうことを続けていると、「これは知っている」という宣言をした後に学習するとストンと入るのだ。

これはフォトリーデイングという、ぺらぺら本を読もうぜという本にも書いてあったのだが。ぺらぺらめくって本を読むというそのものよりも、自分はこの情報を知っているという確信の方が役に立っているのではないだろうか。つまり、全てとはいわないがフォトリーディングのぺらぺらめくるのは、一種の儀式なんじゃないかと思う。

そんなわけで、学習のコツとは、知っていると信じ込むということだ。既に知っていると思うだけで、びっくりするぐらい吸収力が代わるものだ。人間て面白いですね。

そんな感じで、学習を駆動していけばいいと思う。