それは「努力」とは言わない、ただの「気づき」なんだ!/過去未来完了形

注意

日本語文法にない、過去未来完了形というものを導入しようと思います。これは未来完了を過去として保持するというものです。感覚的にわかりにくいかもしれませんが、文の最後に「!」をつけた時は過去未来完了形として違和感を持ってもらえればいいと思います。(過去未来完了形は、今までは未来完了といっていましたがちょっと違うなと思って修正しました)

この文法の意図は、因果関係の意図的な破壊を頭の中で行うということです。つまり常識を取り除いた頭で考えるために、このような文法を取り入れようと思いました。常識を取り払うことで、新しい創造ができると自分は考えたのです。そしてこれはこれを読んでいる人にもできた!と思ったからです。

精神論ではない

ポジティブに考えるというのは精神論ではない。認識論である。認識されてしまった後では、自分にうそをついてごまかすしか、そう「思った」と思うことはできない。ポジティブに考えるというよりも、ポジティブに認識しようということがより正しい。

他人を愛しなさいというのは、愛するということを自己に強いるわけではない。他人というものが、自分とどんな関係であるかということを気がつきなさいということである。自己の中に他人を認識すればいい。そうすれば、他人の痛みは自分のものだ。他人の喜びは自分のものだ。真の共感をすることができるだろう。

「私はできる」と考えるのは、精神論ではない。正しく言えば「私はできた!ということを受け入れた」ということである。偽りの言語での思考になんて意味がない。なぜなら、これはただの精神のパラメータを写すものでしかないから。

自動車で車道を走っているときに、100km/hを出しているからといって、速度メーターを60km/hに戻すひとはいない

自我というのは、自己の一部である。私というもののほんの一部だ。自我がいくら、「私はそう思った」と偽ったところで意味がない。それは実態はもっと深いところにあるからだ。それは無意識に走っている、神経組織の無数の結びつきに走る火花であり、それは神経組織を構成する原子の量子的な揺らぎである。自我は、その状態を示しているに過ぎない。無数の情報は捨て去った後なのだ。捨てた後でそこに、バンソウコをはって誤魔化しても意味がない。

思考というのは、制御が難しいものだ。こう考えるといいですよといわれてできるものではない。それは思考というのは「結果」であるから。もっと上流にその思考の元となるものがある。それが認識である。認識は、脳のすべての思考を支配する。それが入力の基本フォーマットなのだから。

だから、変わるのは簡単なのだ。認識というフィルターを変えればいいのだから。この認識フィルターを変えるというものが「気づき」なのだ。あなたの世界は加速していませんか?毎日、毎年繰り返しが早く、どんどん早く年を取っていると感じませんか?それはあなたの脳が、認識が硬直してきているから。新しい情報がないから、時間認識自体がスキップされるようになるのです。

ループする毎日

繰り返しの毎日というのは、ものすごくあっという間です。それは数年が一瞬で過ぎてしまうくらいに。そう感じることがあるのならば、それは認識が硬直して、思考の盲点ができてしまったから。それを崩すためには、本当に簡単なのは、「変わった!」すること。時間単位あたりの「気づき」が問題なのです。ひらめきが大切なのです。

硬直した時間をすごしていませんか?子供のころは、空は何色でしたか?草のにおいはどんなにおいでしたか?雨はどんな驚きをもたらしていましたか?忘れてしまったとか、慣れてしまったとか、昔だからとかそんなことはどうでもいいんです。気がつきさえすれば、その時の驚きを、においを、こころを取り出すことができます。それは「あなたが持っているもの」だから。

あなたが持っているのだから、あなたはそれを再び感じることができます。新鮮さを引き出すことができます。小さな喜びを毎日持つことができます。あなたは「この世界」をきちんと見ていますか?惰性で脳内からの再生で済ませてませんか?家族の顔を見ていますか?親しい人の顔を見ていますか?空気を感じていますか?世界を「見て」いますか?

認識する勇気を持つ

それはそう認識した!であればいいだけなんです。すべてのものを持った!上で何をすればいいか考えればいいんです。私たちは忘れがちですが、宇宙の一部なんですから。私はすべてをもっていた!というのが本当に正しいわけです。その上で、考えてみればいいんです。何をした!のか、なぜした!のか。それはどれだけ幸せだった!か。それはどれだけ助けられた!か。それだけで私たちは変わった!しまうんです。だって元々持っていた!んですから。