物語よりもメタで語ったほうがいいのかな?

脳内対話産出、産地直送思考。

私はレイヤーである

個というものがある。私とかあなたとか他人というものだ。ただ、それはひとつの見方に過ぎない。そこにはいろいろな可能性がある。それのひとつ、私は「世界」であるという認識。私は最近「覚醒した意識」というものを手に入れた。手に入れてみると、それは認識でできていた。それが何者であるのかさえわかればそれは加工かのうで、量産可能で、意識の他の器としての可能性を考えてみた。

私はレイヤーである

これは私というものを、個として認識するのではなく生態圏として捉えることだ。私たちから、「私」というものではなく、逆に「私」から「私たち」を作るという認識。結構面白い。

私ではない思考組織「他識」

意識ではなく、自分の意識を介在しない思考装置。「他識」これは物語中で自分がやっている行為そのものだ。彼らが存在するかというのは、われわれが存在するのかという命題に近い。われわれも、世界の記憶の断片に過ぎないのだから。

とまぁ、こんな感じのことを考えながら考えているわけです。どうなんでしょうね?最近は論理が論理として感じられない。それは溶けてしまった。論理というのは、ローカル情報世界にしか通用しない。外側には論理可能空間が広がる。そこには、別の論理空間が広がっている。

成長の話とかで思ったのだけれど、私たちは「自分の都合のいい話で納得したいだけ」なのではないだろうか?現実は結構適当で、論理も無かったりカオスだったりするけれど、それを見ずに法則性を見出そうとする。それは半分正しいけど、半分間違いで。私にはどっちも同じに見える。正しさというのは脳内設定に等しくて、その設定に根拠は存在しない。