「悔しさ」で駆動する

最近のテイストは、儀式を兼ねた記憶の消化活動。

悔しいから動く

昔の自分と今の自分の違いを記述すると、その駆動する要因が大分違う事に気がつく。以前の自分は、「自己」が主体であり、その動く理由は利己的な物、つまり褒められたいだったり、何かを手に入れたいだったりした。もちろん、今でもそれは無くなってしまったわけではなく、優先順位が低いだけで存在するのだろう。でも、今は「悔しさ」で動いているとこの前気がついた。

それは過去の心の傷から生まれる痛みを、二度と再び味わいたくないという利己的な思いによって、利他的な行動を駆動する。周りの人が、不幸になったり、自分からつまらない方向に進んだり、大きく間違えたりして欲しくないという、人によっては結構迷惑な行動をとる。その結果が必ずしも、その思い通りになるどころか、人に干渉なんて殆どできないことは重々承知しているが、それでも何とかしたいというふうに考えてしまう。

見方によってはバカなのだろうし、そんな干渉するなという感じなのだろう。その通りだと思うし、選択するのは彼らなのだから、それをどうこうすることは、彼らを尊重していることにならないのだろう。でも、どうにかみんな幸せになって欲しいと思うのだ。

未来の痛みに対する、抵抗力

一度転んだことがあれば、転ぶ物が前に転がっていないかを丹念に見渡すだろう。そしてあらかじめ避けるか、それを無力化するように働きかけるだろう。でもそれをどれだけ他の人に伝えても、その痛みが伝わらなければ、その重要性は伝わらない。

自分が環境の恩赦を受けていることに気がつかずに、改善をしようとしないで文句しか言わないような人は嫌いだ。どれだけ恵まれていて、それがただラッキーで生まれたのではなく、誰かが努力して築きあげたのを、笑って文句を言うやつが嫌いだ。自分で作ってみればそれがどれだけ恵まれている環境であるのか気がつくだろうに。どれだけ、誰かが苦労しているのが見えるだろうに。

アドバイスも、苦労も、痛みもなかなか伝わらない。でも、どうにかして、伝えることで何か糧を学んでもらえればいいのにな。