理解されるということ

それとかあれとか

そう、プロジェクトは、うまくいった。

でも、なんだか実感がわかず、私が頑張ったという実感もなく、なんだか気持ちは宙ぶらりんのままだった。それは、全部が全部うまくいったわけではないからなのかもしれない。でも、それはどんなものだろうと当然で、よかった方をみて喜ぶべきなのだろう。

でも、それを評価するだけの経験はなくて。目指す類型の人も居ないままで、やりたいことがすべてできる立ち位置でもなく、それでもみんなできることはできるだけやった上で、得た結果だった。でもどこか空虚で、私の未熟なせいで、無意味な懸案事項とか、みんなに無理を強いさせてしまったりとか、サポートをすることが不十分だったりとか、残念に思うこともたくさんあった。

それは、単純に私の能力と手段と目的を履き違えたりする思考とか、自分の気持ちを優先させて、迷惑をかけてしまうという未熟さとか、自分の色々なことの知らなさ、そして色々なことに対する不精さというところにおいて、非常に痛感することが多かった。人間関係は難しいし、能力がないことを痛感した。

そして、やはりすでにその道を通った人は、強いし、すごいということを痛感し、色々無理を押して頑張ってくれた仲間には感謝をするばかりだ。これでも、みんなが幸せになれる道を最大限に探った結果だ。

色々な人に、すごいねとかよくやったとか言われたけど、どうもぴんと来なくて、犠牲になったもの、犠牲にしてしまったもの、改善できたはずなのに、おろそかにしたこととか色々渦巻いていた。でも、似たような立場の人に認められただけで、頑張ったんだなと思うことができた。自分で自分を認めていいのだということに気がついた。

次に生かせることは次に生かして、次に進もうと思う。