能力とはなんなのか?


下の弟が、近く就職活動を始める。会社で、面接に出たりする。これらで、疑問に思うのは、彼らが能力をすごく漫然としか考えていないということだ。仕事において、能力があるか無いかというのは、ものすごく差ができてしまうものである。

それは学業ができるかどうかではない。それは知識を持っているかどうかではない。それは思考ができるかどうかだけではない。それは行動ができるかだけではない。それは簡単に言うと遂行能力の有無のことだ。それは主体で思考し行動し評価しフィードバックできることだ。それは行動様式であり、行動選択の事だ。

能力は、精神の変形をも含む、精神の機能形のことだ

昔私は、私自身を剣のような武器だと認識していた。単一思考能力、思考展開などが私の得意な点であると認識していた。得意なことはものすごくできるけど、できないことは全然できない。私自身の特性は、明らかに偏りのあるものだった。将棋の駒で例えるならば、香車である。そして、私自身を使いこなしてくれる人間が現れるのを待っていた。つまり、単純能力だけで価値があると勘違いをしていたのだ。

単純能力を行使するだけでは、作業者としてのみ力を発揮することとなり、それは作業の出来栄えに関してのみ私は左右することができて、その作業に関わる結果に変化を与えることに責任を持たない。それは単純に、指揮ができず、作業しかできない人間のことだ。それは単体では使えない人間だ。責任者が、その成功のフィードバックを通すことによってのみ、漸くうまくいく。

私は、自分の限界を知った。つまり、私自身が何も出来ない人間だと思い知ったのだ。計画ができない、計画の遂行ができない、結果の評価ができない、評価のフィードバックができない。つまり、PDCA回路が回ることなく、ただなんとなく、物事を進めるだけだった。目的をつくらず、目標を立てず、行動を起こし、結果の評価を適当に行う。

私は残念ながら、主体者で無かった。そして、それは本当にこっぴどく辛く苦しい思いを味わった後にようやく気がついたのだった。私は切れ味のいい剣になろうとしていたが、それを使いこなす自分という主格が必要であると、ようやく気がついたのだった。そしてその時に私は主格が無かった。

主格発見

私は、面白いことを適当に回すという回路しか持っていなかった。つまり、餌を求めて歩いて、それを見つけたら食べるというロジックで生きていた。でも、そのことにそれで問題ないときには気がつかなかったのだ。それは、必要にならないといらないものなのかもしれない。それは、本では手に入らないものかもしれない。私は生存の危機を感じて、生きたいと思った結果として、その主格を手に入れた。それは、パッと手に入るようなものではなく、主体で人間関係をひたすらシミュレーションし尽くして、その主体が私だと思えることで、手に入れた物だった。

主体が私に有るのならば、私の物語が作れるから、計画も行動も評価もフィードバックも簡単なのだ。能力がPDCA回路の有無であると明確に考えられないのならば、それは主体が明確に定まっていないからだろう。それを手に入れるには、今までの行動様式で乗り越えられない壁が必要なのだ。PDCA回路とはエラーを取り込んだ形での回路のことだ。エラーを直視し、次の行動に変化を加えてより、生存競争を生き抜くための行動を取ることだ。

標準以上の回路形態

私は、能力をものすごく持つことで、それに最適化された思考形態を獲得している人をみてきた。それは標準型PDCA回路を持っている上にさらに、火を入れて叩き上げて創り上げた思考形態そのものである。それは能力を、学ぶことを最適化し、使い方を最適化し、考え方を最適化し、人間関係を最適化したものだ。機能美とも言える芸術的な精神構造の事だ。それは研ぎ澄まされた鋼のように、打たれづよく粘り強く、美しい。

ただし、その最適化は、限られた物に行なってしまうと、変化に対応出来なくなる可能性がある。矛盾する複数体系を取り込みながら最適化を行うことができる様になりたいと、今私はそう考えている。それは、系の中に矛盾を受け入れつつ、評価自体の評価フィードバックを行い、評価の変化についていけるようにしたいと考えている。メタ化された自分というものを作ってみたいと思う。