「自立と依存の境界」から「資本主義と情報主義のさかいめ」

さてfromdusktildawnさんの
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から
分裂勘違い君劇場 - 西暦2026年の日本
に向かっての「普通と違う視点で書かれた本質」をおもしろいと思ったので、連続する自分の意見を書いてみることにする。


依存状態はフラクタルに連続する

依存でつながる関係はとことん依存の連鎖でなっている。それは、政府の天下りなどの「自分でお金を稼ぐ」ということを知らない人達のように。依存は甘い蜜だ。それも一回浸ってしまうともうそこから逃れられないかのように、その人間、組織を骨抜きにしてしまう。

「自分は〜だから」という理由で、そのことをしないというのは依存関係だ。甘えていることに気がつかず、それを指摘、または取り上げようとすると、いかにも自分がやってきたことを意味があるかのように語る。そして、それが差別または不公平などど言う、実質意味のない言葉で依存状態を保とうとする。それはたいてい自分に都合のいい勘違いである。好意を食い物にする悪意である。

依存状態であればある程、自分が世界に影響できる力が弱まることになる。それはたとえば、役人仕事であり、NHKの堕落ぶりあり、新聞の勘違いだ。彼らは自分の特殊性を守ることを必死にしているが、そうしなければ他の組織や競争に耐えられないということを知っているからだ。働かないで手に入る甘い蜜は誰も手を離すわけがない。

依存の中の競争は自立の方向に向かう

依存を抜け出す手段が競争だ。競争をすることで、依存できる場所が減り、相対的に自分の位置を理解できるようになり、結果として依存状態ではいられなくなる。依存に向かえば、競争で敗れ、そして滅びるだけである。それは、カルテルなどの違法な取引による寡占状態による市場に依存するのも同じことである。

今では、世界がネットによって繋がり、地理的な距離が意味をなさなくなってきている。それは情報レイヤーで最も大きな現象ではあるが、もちろん物理レイヤーにも同じように働く。そうなるとローカルで寡占状態に依存してたとしても、グローバルで競争力を持ちえなくなってしまう。そうなれば長い年月で見ると、競争力を失い市場からご退場していくのみである。

依存ということを競争によって、抜け出そうとしたのが資本主義であり、みんなで依存し合ってしまったのが共産主義だ。どんな価値を創造するかというのが資本主義で、作った価値をどういう風に分配するのに力を入れたのが共産主義だ。共産主義は結局、価値を作らないでそれを配るという無理なことになり、そして崩壊した。競争無き依存は退場していくのみだ。

自立の中の競争は価値の分散につながる

一方、自立の中の競争は逆にうまく働かない。それは、みんなが思いついたことを隠してしまえば、みんな知らないために同じことを考え出さなければならなくなる。そうすれば、どう考えてもロスが多いことがわかるだろう。それよりもみんなで共有してしまった方が社会全体として効率がいいことがわかる。これが、オープンソースの流れであり、学者同士の研究結果の共有である。

これは、資本主義的な見方をすれば、どう見てもうまくいくのだろうか?と考えてしまう。今まで1万円で売れていたものを0円で提供してしまうのだから。そうすれば、市場は崩壊し、パイはなくなり誰がおいしい思いをするのだろうか?と考えてしまう。しかし実際は、そうならず逆にオープンに広げた方が知名度が上がり、技術力高まり、結果としてうまくいく。おもしろいことに、資本で大企業がごり押ししてきたのとは逆の方向で、大資本に勝ってしまうのだ。今では大企業もそのような流れになっているが。

自立の上の協力は価値の創造につながる

さて、これはなぜなのだろうか?それの一つの答えとして、「自立の上の協力は価値の創造につながる」ということがいえる。自立無き協力は依存の仕合いでしかないが、自立の上の協力は逆に、価値を高める方向に働くのだ。これは人間同士の関係だろうと、組織の関係であろうと、社会の関係であろうと同じことである。

ただ、自立するという条件がかなり難しいというのは、知ってのとおりである。会社に勤めて、その会社に依存してしまえば、金銭的に自立していたとしても依存状態になってしまう。同じように大学の学歴に依存してしまえば、学歴に依存した状態になってしまう。

頑張って手に入れたものであろうと、守りに入ってしまえばその時点で手に入れたものの本質を失ってしまうのだ。それはつまり「自立」という状態であり、手に入れた故に「依存」してしまうという痛烈な皮肉となって本人に返ってしまう。それは同じように、資本や技術や人を大量に手に入れた企業であれ同じように働いてしまう。だからこそ、企業の寿命というものが存在し、新しい企業が古い大企業を打ち破るという仕組みだ。

自立をやめた時点で、守りに入り、成長は止まり、依存による依存で瓦解するだけになってしまう。そうなった、大企業は大きいがゆえに気がついたとしても、体質を変えることは難しい。甘い蜜は誰も離したくない、例えそのことでで明日滅びようとも。日本は今そのような依存体質を改善しようとしている。そうできなければ、歴史の中で滅びるだけだ。

大企業の「固体」が中小企業の「クラスター」に負ける時が来る

すでにもうその傾向は見える。「クラスター」というのは物質の状態の一つであり、数個から数十個の集まりのことだ。この状態は、固体に比べて圧倒的に表面に触れる面積が多く、活性が高い。

これはつまり、インターネットによる表面積の高い、クラスターの方が、大きく寸胴な大企業に勝ってしまうということだ。そして、方向決定がすばやく、小回りが利く、クラスターの方が時間の流れが速くなった今の世界をうまく乗ることができるということだ。これからは資本によるパワーゲームではなく、アイディアをすばやく実現できるかというアジャイルゲーム(言いにくいな)になるだろう。大企業はこれからは大きいことが仇となって、まるで恐竜のように滅びてしまうだろう。一部の、分割することによって小さくなることを選ぶ大企業や、革新し続けるという稀な企業以外は。

資本主義から情報主義へ

「依存による、依存の世界」な軍事主義、封建主義から、「グローバルな競争による、ローカルな協力」という資本主義を渡って、将来的には「自立によるグローバルな協力」という情報主義の世界まで進むことになるだろうと思われる。そこでは情報が今の貨幣価値のように扱われる。今でも価値の創造の6割が情報となっているが、それがもっと進むことになる。そうすると、まるで情報が貨幣のようになり、貨幣の代わりに税金などが取られる時代がくるかもしれない。

情報といっても今のようなコピー可能な「技術」という形ではない。それはコピー不可能な情報つまり「創造力」や「人格」や「人間関係」や「組織体質」などが価値としてあげられるようになるだろう。今でもすでに上位の企業では当たり前のことではある。それが普通一般になるだけだ。資本すらも、一情報という属性でしかなくなるかもしれない。価値の交換という、当たり前のことが起きるために、情報の中で最も価値のある情報つまり、創造力が一番価値のある世界になるだろう。雑務はパソコンすべてこなしてしまう。わざわざ人間が雑用なんてやる必要がなくなってしまうだろう。

そこまでくれば会社という制度自体も大きく変わってしまうだろう。「高度な価値創造ができる集団としての職場」に入る「個人会社から数人の会社」という、今から見ると遊んでんのか何なのかよくわからないごちゃまぜ状態になる。それは「はてな」や「グーグル」などの高度化した情報企業に見られる傾向がもっと加速した状態といえる。また、その職場自体がリアルな存在なのか、バーチャルな存在かすら問題にならないだろう。

情報立国という選択

一方で、高度な創造というレベルに達するには基本的な教育が受けられるという前提が存在する。そのために世界はいくつかの分割状態になるのかもしれない。それは、「軍事力が支配する場所」と「資本力が支配する場所」と「創造力が支配する場所」の三つだ。今でもそのような状態が、見られるが、それが地理的な場所によらない情報的な場所による分裂状態になるだろう。そして、それぞれの層で摩擦が今以上に激しくなる。

その時に日本は数少ない「想像力の支配する場所」が存在する地域になりえる国だと思う。ただ、今のまま迷走していては、その限りではないが。それに、創造力という分野においては日本はまだまだ弱い。それさえ克服すれば、知的なメッカのような存在として、存在できるのではないだろうか。正直この道しか日本にはない。

自立という切符

このように「自立」というものが、まるで切符のように、こちらの世界とあちらの世界を渡るためのもののようになるだろう。だが依然として「依存」という旧世代の型にハマったままの人たちは、あちらがわの世界に進むことができない。それがある意味、心理的なデジタルデバイトとして働く最も大きいものとなるのだと思う。デジタルデバイトとは、情報の所有の格差ではなく情報の獲得と生産に対する心理的態度の違いなのだと思う。そしてその態度とは自立と依存である。