ヒーローやヒロインになるよりも普通の人になる方が難しい

理由無き特別性など存在しない

よく、「自分だけは特別だ」などと自分に都合のいい妄想を抱く人がいる。理由はないけど、何か自分はほかの人の持っていない様な隠れた才能を持っていたり、よくわからないけど自分だけは大丈夫などと勘違いをすることがある。まぁ、これは青少年特有の妄想だったりするが、誰でも自分が「主体」であるから、自分にとって自分は特別だ。ただそれを、他人にまで広げてしまうと妄想になってしまう。そういう人は、悲しいことに自分が特別だと思っている間は逆に特別にはなれない。

自分というものを客観視できなければ、本当の姿は見えてこない

特別な自分のままで過ごせば、それは「自分の中だけ」で特別なので、ある意味気分がいい。ただ、それが他人にとっては単なる妄想であり、自分の眼を曇らせて、歪めて自分を見ることであるがゆえに、逆にどこにでもいる普通の人である。そして、逆に自分が普通の人間であることを知っている人間は、自分を直視できるが故に特別な人間になる。でも、彼らは自分が特別なことをやっているとは思わないし、当たり前だと思っている。

ドラマティックではない日常にこそ本質がある

同じようにドラマティックな展開やスカッとするイベントを望む人がいる。そういう人は当たり前であるが、劇的なイベントなんて起きないし、自分でそのようなことを起こそうという視点が欠けている。ドラマティックな展開は確かに、人を酔わせ、自分が特別であることを証明してくれるようであるが、そのようなことはそう思う人にこそ、けして来ることがない。

逆に日常を大切にし、割り切れない現実を受け入れる人は、劇的なことなどにあこがれるほどの意味がないことがわかっているし、起こそうと思えば自分で興せるものだと考えている。しかし、彼らは日常の連続こそが本質であって、一時イベントなどはそれほど意味があるとは思わない。だからこそ、普通の人から見ると彼らの日常はドラマティックに見える。

特別であること、普通であること

以上のように、特別性を求める人は、逆に普通の人となり、普遍性を求める人は逆に特別な人になるのだろう。都合のよい妄想は麻薬のようなものであり、満足感を補ってしまうしまうが故に、日々現実と戦う力を無くしてしまう。妄想に依存すれば、するだけ人間として弱くなってしまう。逆に妄想に頼らず、自分を直視できる人は、日々向上し強くなっていく。そして、普通であることを知っているが故に特別になる。