「楽しいという事」から「天才と秀才の違い」

楽しいという事

楽しいことは、何なのだろうか?単純に説明できそうである。しかし、あまりにも範囲が広いため、そして対応した欲望がない様に見えるために、それをそれ以上に分解しないことが多い。「楽しい」を「楽しい」でしか、説明出来なければ、楽しいを作ることは経験的な話になってしまう。それでは面白くない。

理論的に楽しいとは、何なのだろうか?そして、何をしている時が一番楽しいのだろうか?楽しいとは感情なのか、それとも状況なのだろうか?

半分の回答

いきなりだが、半分だけ答えを言おう。楽しいとは自己効力感のことだ。自分が、力を持っていることを実感することが、「楽しい」である。例えば、テレビゲームでは「楽しい」という状態を維持するために、成長曲線とそれに対する抗力を、細かく管理することで、それを実現している。ただ、普通の人はそれでもいつかは飽きてしまう。

飽きるというのは、その効力に価値がなくなった時に、起きる。たとえば、繰り返しすぎて、それが反動にならない時。もう一つが、ハードルが高すぎて、超えることを諦めた時だ。

ただ、これだけでは、非常に表層的な部分しか見ていない。それでは、説明出来ない部分も存在する。例えば、お笑いを見ている時。自分は何もしていない。見ているだけだ。それでも確かに楽しい。楽しいとは何なのだろうか?

本当の回答

楽しいとは「ネットワークが構築される時の複雑さを増す引力」のことだ。
なんのことだろうか。いきなり、ネットワークとか言われてもわからないだろうと思うので説明しよう。そうしよう。

ネットワークといっても、インターネットとかそういう話ではない。インターネットは確かにネットワークであるが。ネットワークとは、事物(あらゆる物事)を対象とした、個々の関係の総体のことだ。それが、ある程度集まって関係を持つと、個々の関係の帯域を増し、より複雑な方向に進むようになる。それは自己組織力と言われるが、このネットワークの自己組織力こそが「楽しい」の正体だと思う。

例を出していこう。

成長することは楽しい。これは、自分の中、または外の個のネットワークがより帯域を増し、複雑になったからだ。

笑うことは楽しい。これは、いつも繋がっていなかった思考を、ある意味スマートに繋げてしまうためだ。これも、ネットワークが成長する。よって、楽しい。

作ることは楽しい。これも、具体的なものを作るのであれば、それがネットワークとして成長するためだ。それとともに、自分の中のネットワークも成長することが多い。

よい人間関係を作ることは楽しい。人間関係のネットワークが成長するためだ。

理解頂けただろうか。楽しいとはネットワークの成長の力、つまり自己組織力だったのだ。さらに言えば、生命力も自己組織力だ。だから、生きるのも楽しい。食べるのも楽しいし、寝るのも楽しい。人と話すのも楽しいし、何か物を作るのも考えるのも最高に楽しい。知ることや学ぶことも、背筋がぞくぞくするほど楽しい。

楽しさの条件

私が楽しいと感じるものでも、自分は楽しくないと言われる方もいるだろう。この差はなんだろうか。それは簡単だ。目的を手段としてしまえば、すべてはつまらなくなる。それは強制された時に起きやすい(必ずではない)し、上位の目的を達するために、これは手段と割り切ることで起きる。目的のための手段にしてしまうと、何でもかんでもつまらなくなる。

高校生のときにはそのような状態はよく味わった。ただ、肺炎で入院を2週間して、何もできなかった後は違った。文字どおり世界は輝いていた。あれはすごかった。ものすごく楽しかった。光の中を風をきって歩くのが楽しかった。授業を受けるのが楽しかった。いろいろな人と話せるのが楽しかった。あれはすごい体験だった。

今、同等の感動を味わえるかと聞かれたら、そうではないと答える。でも、それが言いたいことではない。わかるだろうか?何でもできることを前提にしてマイナス評価してしまうと楽しくないのだ。逆に、できないことが前提で、プラス評価すれば楽しいのだ。

視点の問題

これは評価の仕方の問題ではない。評価の視点の問題だ。ネットワークが繋がることを注目するのか、ネットワークが繋がらないことに注目するのかということだ。繋がる方を見れば楽しくなり、それは成長である。

ただ、注目する場所を変えてしまうとそれは、繋がらないことを強調してしまう。そして、それは、いつまでたっても成長できなくなり、繋がらないことを恐れるようになってしまう。また、できないのじゃないかという無力の学習をしてしまうためだ。

努力という間違い

努力は、うまくいかないことが多い。考えてほしい。あなたはどれほどのことを努力で成しただろうか?もちろん、努力でやってきたという人はいる。だがよく考えて欲しい。本当によくできたことは努力したのだろうか?楽しいことを努力と言うのだろうか?

努力の「やり続ける」という姿勢は、素晴らしいものがある。ただ、それが「例え嫌であっても」というのが、うまくいかない。前述の説明のとおり、嫌なことを認識しながら、つまり目的のための手段としてしまうことで、確実につまらなくなる。だからこそ、無理やりするということになる。そして、それはループして失敗する。楽しくないのだから。

うまくいくのは「楽しくやり続ける」という姿勢だ。わかるだろうか、やり続けることが重要なのではなく、楽しくという部分が重要なのだ。これを勘違いしてしまう人は多い。

天才と秀才の違い

天才は「楽しいことを楽しくやり続ける」だからこそ、ネットワークが密になり、常人では到達できないような域に達することができる。「好きなものこそ上手なれ」とはうまくいったものだ。だいたい、天才は「天才になろうとして努力している」のではない。好きなことをやっているだけだ。

秀才は、秀才たらんと努力する。別にそれを責めるわけではない。ただ、できないことに注目することで、自らの成長を制限してしまう。別にそれで十分と言われればそうかもしれない。努力すること自体が好きになってしまえば、ある程度うまくいくのだろうが、矛盾する構造が邪魔になる。

得意なこと

「今はできないけど得意なこと」ということは、勘違いのように思えるが、そうではない。できるということを得意と表現しているのではなく。自分はその対象と帯域を確実に取ることができるということだ。これは、言いかえれば好きということになってしまうが、注目すべきは、「確実に帯域を取れる」という自信である。それさえ持ってしまえば、今の時点でできなくても確実にできるようになる。

得意であることを学習するには、必ず反応が返って来ることを学習することだ。つまり、最初はできることを繰り返しすることが、遠回しに見えても近道であるのだろう。得意になってしまえば、なんでも学習したい放題になる。

得意になることを学習してしまえば、本当に何でもうまくいくようになるんだろう。そして、それは楽しくて楽しくてしょうがない。