恋愛の意味

歌の聴き方

世の中には恋愛の歌というのは多い。自分は100%恋愛の曲というのはあまり好きではない。中身が分かりやすすぎるからだ。恋愛自体の感情にそれほど価値を置いていないからだ。

この前、曲を聴いていて、自分は面白い曲だといい、もう一人はそんなに好きでは無いということがあった。聴いてみると、歌詞の内容が自己憐憫のように感じてあまり好きではないと言う。自分が聞き方が違うのかも知れないが、そのように思ったことは無かった。気になったので、もう少し説明を求めてみた。

曰く「恋愛について歌っているのに、あまりにも自分を助けてくれ、愛してくれと言っているようで嫌」
とのことだった。なるほど。そこで非常に思い当たったものがある。ああ、自分はこの歌が恋愛の歌だと思って聴いたことが無かったと。なるほど、そう言われれば一般的な聴き方はそうなのだろう。解釈としては、自分の方が正しくないのだろう。

自分は、どうも入り組みすぎた解釈をするのが好きなようだ。二重三重に多重に重ねて解釈する。それがお互いに矛盾していてもいい。
そういう風に言う人に会ったことは無い。矛盾していても、解釈の広がり自体がその世界だと思っているような節がある。今回も、恋愛をまったく含まず、心理的な葛藤として、未成熟な人間の弱さゆえの弱さを叫ぶことの強さとして、解釈していた。弱さを理解することは、弱いことではない。むしろ、正面きって自分と向き合える強さだと思っていた。足りないところと、そのための欲求、葛藤、それでも求めることの弱さと強さ。コンプレックスと抑圧の解放、カタルシス。それが光って輝いていた。だから、その人の歌う曲は好きだと思っていた。

おそらく、その人のファンだと言う人にそんなことを言っても、感想のベクトルが70度ほど違うと思う。大体、明らかに層が違う。今まで、気がつかなかったけど。その人たちも、そう考えているのかと思ってた。

恋愛の意味

そんなこんなで、恋愛の存在意義、必要性について考える機会があった。なぜ、人は恋愛するのだろうか。

まぁ、人によって色々な意見があるだろう。自分の意見を書いてみようと思う。

恋愛の意義があるとするのならば、自己以外の他者との遭遇だろう。思春期に人は自分に出会う。それと同時に恋が発現するようになる。自我の無い人は恋に落ちない。自己があってこその、他者だからだ。

そういう意味で、無理やり遭遇させるのだろう、他者と。世界に自分だけでないと言うことを知るためのチャンスなのだろう。コンプレックスは埋めてもらうものではない、自分でしかそれを解決する者は居ない。お互いにお互いを求めているようで、自分の主張しかしていないような人たちが居る。結論から言えば、自分が他の人を認められる自分という状態、これを認めることで満足を得るという、この世には実は自分しか居ないんだよという感情のもつれ合いだ。絡まっているようで、永遠に平行線。お互いを求めているようで、求めるのは自分自身。

他者との遭遇

会ったことがあるだろうか。実はかなり心理的な難易度が高いと思う。まぁ、これは自分の感覚であるが。もしかしたら、コンプレックスも無く、簡単に出会える人も居るのだろう。うーん、いるんだろうか。それくらい難しいと思う。でも、見分け方は簡単。

欲望の先頭の主語を見ればいい。ああ、でも対自分の偽装も簡単だから、難しい人には難しいか。その点では他人の方が分かりやすいのかもしれない。えらそうなことを言っているが、自分は難しい。下手だ。

他の人間に出会うのは、喜びだと思う。そばに住んでいても、一緒に居る時間が多くても、会えないことは多いと思う。

そう、似たようなことに、愛と言うものがある。あれだけ、テレビでラジオで愛と言っているもの。あれとはちょっと質が違うと思う。本質は、繋がる喜びだ。他者との遭遇の後の、尊敬と信頼の混じった切れない繋がり、これが愛だと思う。そのための前準備として、恋愛があるんじゃないかというのが最近の結論です。