リソースの取り合い

神の声と意識

昔の人、紀元前程度の昔の人は、神の声が聞こえるのが普通だったらしい。聖書などその時代の書物を調べると、神が〜を言った。神が〜しろと言ったというようになっているらしい。意識は、どうやらその神の声と相反しているらしい。意識を持ってから、神様に会えて声を聞こえる人は、非常に少なくなってしまった。だから、今の宗教者は迷う。神の声が聞こえないのだから。

旧約聖書の時代、神は非常に身近な存在だった。まるで、旅人のように人々の前に現れた。神の声を聞くのは、当然だった。
旧約聖書の時代のユダヤ教では、行動が裁かれるだから、悪い行動を抑制する十戒が与えられた。
新約聖書キリスト教は違う、考えこそが問題であり、悪いことは考えただけで駄目だとキリストは言った。これは実は紀元ころに意識が生まれたという証拠となる。その証拠に、神代の時代は終わり、それ以降奇跡というものは、文字通り奇跡となってしまう。旧約の時代から比べれば明らかに、奇跡と言われるものの質が変わっている。旧約の時代は、まるで魔法のように何でもできた。新約の時代となってからは、それが明らかに小さくなっている。まぁ、編纂が行われたとか、恣意的な物を含めなかったとしてもだ。

新約時代以降、神の声を失った人類は迷いだす。変わりに意識を手に入れたが、意識と言うのはあまりに心細い。意識と言うのは、選択機関であるように見せかけて、実はただのモニター機構でしかない。要するに、頭の中の思考プロセスを、自分で理解するというシステムだ。それでも、ほとんどの根幹となるプロセスは、ちっとも感じることができないが。よく、意識と無意識の大きさを比べると1:9くらいだと言うことを言う。これは何かを思い違いをしている。意識は無意識の自分を見るという機構でしかないからだ。要するに、無意識が本体であって、意識は従属する一機構でしかない。

意識が、自分が考えられるから(または何らかのプロセスの根拠を持って)私は在ると考えることすらも、無意識の動作でしかない。まぁ、どんなものの根拠も、信じるものというレベルでしか考えられないものではあるが。

なぜ、意識が存在するのか。また、存在しなければならなくなったか。それは、神の声では制御しきれなくなるほどの、外界の変化のためだ。神の声は、外界が変わらないことを前提とした、システムだった。それで制御しきれなくなったとき、人はようやく自律機構を手に入れた。要するに、神の声が意識に負けた。または適者生存での、淘汰が起きたのだ。意識の歴史はそれほど長くない。意識前と意識後で明らかに、歴史の豊かさが違うのは、単に記録が残っていないと言うことではないのだろう。

さいころには意識が無い

さいころを思い出してほしい、思春期を越えるころまで、自覚すること、自分の意識で何かを行うと言うことが明らかに少ない、またはほとんど無かったということを。子供のころには、意識は不連続なのだ。意思が薄いとか、鍛えていないなどではなく、考えていないのだ。メタ思考と言うものがほとんどできず、ベタ思考で考えたことをそのままやっているだけだ。そして、自分と言うこと、自分を意識できていない。

そのことと、神童や、大人になるにつれて失う能力と言うのは、関係しているのではないだろうか?意識が少なかったからこそ、できるものというのは存在する。単に、あるから受け入れるという、認識のチェック機構が働きだすということもあるだろうが。小さいころにお化けを見たことは無いだろうか。今から考えると夢なのか現実なのか分からない記憶は無いだろうか。そのころの記憶の破片を拾ってみると面白い。過去も未来も無く、今しか生きていない。一年が、いや一日がまるで一生続いても終わらないかと言う錯覚を受けるような、時間感覚。あれは、単に世界に慣れていないというだけの問題ではない。

無意識との帯域

意識は、自身の生まれた理由を忘れ肥大しすぎた。それは、意識がすべての自分を動かしていると錯覚してしまうほどに、膨大となった。それが思春期のころだろう。急に「自分」と言う存在を意識しだす。そのころに、自分は何者かという認識を今までの経験からメタ的に組み立てる。人間関係のレイヤーや、知識、生活、色々な経験を元に、自分と言うものを「見つける」。そして、時間はようやく動き出す。過去に浸り、未来を恐れる。現在に住まないから、時間は加速する。現在に居る時だけ、時間は感じることができる。

思春期を過ぎれば漸く、ある程度の意識と無意識の折り合いをつけることが出来る様になる。拡張した意識に、メタ的な自分が乗って、自分はそこを生きるようになる。意識は焦点のシステムだ。優先順位と選択を決めるシステムだ、実行するのは無意識。

意識の使い方はあまり知られていない。単に適当に今までこのように使っていたからという理由で、ほとんどの人は使い続ける。意識には、すべての権限を持っているわけではないが、メタ実行権限を持っている。好悪を決める権限だ。好悪と言うのは、意識のいや生きるための根幹だ。それは心理的にチカラを発揮する。とはいえ、好悪を最初に決めるのは無意識の中で行われる。それを変える権限を持っているのが意識だ。好悪を変化することが出来るというのは、何でも自己を操ることが出来ることを意味する。

好悪というのは、自分と世界の境界だ。その状態によって、どのような世界が見えるか、世界にどのような干渉をもたらすことが出来るかが決まる。それだけのチカラが在る。

世界と干渉

世界は、自己に干渉する。そして自己は世界に干渉する。そして、世界を介して、私たちは干渉しあう。今の意識の標準では、自分の体=自分自身という風になっているから、それを意識せずに直接接しているように考えているが、実は間接的にしか接していない。これが直接干渉できるようになると、また人を動かすコアシステムに変化が現れるかも知れない。神の声は意識に、意識は何にとって変わられるのだろうか?