仮想実行者

仮想実行者とは

2日くらい前の「段取り力」を書いたときに思いついた概念。実際にいる訳ではないが、自分を複数の要素に分解したときに、そのように考えると理解が簡単であるためにそう名づけた。仮想実行者は意識の上の「私」と同様の存在である。無意識のリソースを使って、ある目的を達成する。人格は存在しないものの、行動ラインが存在する。仮想実行者に任せれば、「私」は、ほぼオートの物事を行えるようになる。それだけではなく、3倍以上の効率(自分の経験上)で素早くこなすことができる。これは、悩みが生じないことや、繰り返すことが苦痛に感じないためである。

得意な物事ということは、すでにこの仮想実行者を構築済みであるか、今までの仮想実行者を少し改造するだけで使いまわせる、または構築する自信があるということなのだろう。または有る程度包括的な範囲を持っているか、又は極めて小さい範囲のみ適応できるかということなのだろう。

自分のこと

例えば自分は、思考という面において、それなりに得意(「得意」かどうかは主観である)だと思っていたが、現実の行動においては、まったく使い物にならなかった。それは実行者が主観の「私」であるために、うまくいっていなかったのだ。今から考えると何をやっているんだと思うが、当時としては精一杯だった。慣れるとかそういうレベルではなく、時間は無く、徹夜が続き、後回しにしたものが溜まり、生活はうまくいってなかった。予定は遅れ、後回しで片っ端から消耗戦。勝てるわけも無く、負けばかりだった。

それが変わったのは、やはり「段取り力」を、「本当に必要だと考えている時」に読んだからだ。注意が必要なのは、そのオブジェクト「段取り力」ではなく、必要だと思うことである。自分は、今まではそれなりの生活だったら、だらしないながらも暮らせたから、必要ないと思っていた。しかし、起業するとすべてが変わってしまった。何もかもが足りなく、自分の無力さを嫌というほど思い知らされた。ものすごい無力だった。でも、頑張っても頑張ってもどうしようも無かった。いつしか勘違いをし、回りを敵視するようになってしまうほど、追い詰められていた。何もかもが足りなかった。技術も能力も時間も。

今から思うと何が足りないのか分かるが、当時は分からなかった。いや、今は手に入ってしまったから、何が足りなかったのか逆に分かりづらい。変わってしまうと、もう前の状態が理解できなくなってしまう。「私」は唐突に理解したのだ。それは心を入れ替えたとか、何か違う生き方をしたとかではなく、理解だった。おそらく、行動の得意な人は、すでにこの行動に対する仮想実行者を持っているのだろう。持っている側から見ると、持っていない側は、「頑張っていないように見える。」「やる気の無いように見える。」「傷つきやすく、指摘しても直さない」と本当に大変なときには、反感すら買ってしまう。

しかし、本人としては頑張っているし、理解されないし、うまくいかないできつい。これは本当に何なのだろう?いや答えは知っているが、何でこんなに違ってしまうのか理解ができないのだ。なぜなのだろう。段取り八部と言われれば、その通りなのだが、なんなんだろう。