ステルス技術によるデザインの定量化

ステルス技術の応用による視界の解析

これはすごい!!すごく頭いい。

基本的なステルス技術の応用

 現代の日本の都市や住居環境というものは、奇妙なことにわざわざ金をかけて新しく建て換えを行うごとに、その外見はどこか「清潔なスラム街」と化していく傾向があり、本物のスラム街と比べてさえ狭苦しくて窒息しそうな閉塞感を感じさせるものである。実際古くからあった家が取り壊されて新しい住宅が建ち、庭や空き地が駐車場に化けると、今までそれなりに広く感じていた町が急に狭くなったように感じられて圧迫感を覚えることが多い。
 これは私の住んでいる周囲でも見られることであり、最もひどい建築物の例というのは、例えば最近の白っぽい2階建ての安アパートであり、隣にブロック塀で囲われた小さいコンクリートの駐車場でもついていれば完璧である。
 そういうふうになってしまった場所を歩きまわってその元凶が一体どこにあるのかを探り、もっと具体的な例としては、そのコンクリートの駐車場が、以前に単なる空き地であった時に比べてどうしてこうも圧迫感を与えるのかを注意深く見てみると、一つの興味深い事実に気づく。すなわちそれがステルス技術において要求されているものに非常に似ているのである
都市建築のステルス理論

二回目だが、これはすごい。デザインを定量化することで、視界の見え方を説明しようしている。他にも定量化の方法として黄金率などがあるが、ここまで感覚的ではなく、やってみると確かにそうなのだけどというレベルだ。*1なるほど、人の視界はあるがままに見える訳ではない、一度頭の中で解析されたオブジェクトが意識に上ってくるのだ。だから、人間のデザインの経済的効率化による最適解と、視界からの最適解が異なる訳だ。その違和感をこの理論は説明することができる。そういう意味でこの分野の研究は、進めれば色々な効果があると思う。

さらにそれの応用で、ステルス・ウェブ・デザインものもある。サイトデザインにおけるスレテス理論の応用だ。

ステレス理論の別の面の応用

ステレス理論というのは、人間の視界が頭の中でどのように描かれているかということを理論化したものだ。デザインの理論は、普通は「見えること」に注目するものだが、この理論は「見えなくなる」ことと「見える」ことの違いに注目した。このことが非常に頭がいいと思う。美術をやるものは、作ったものを見せようとする。見せないようにするデザインは、コンセプトとしてアリかもしれないが普通はやらない。

さて、これは「見える」「見えない」だが、実際は「認識できる」「認識できない」だ。別に対象は何でもありなはずだ。例えば、小説で薄っぺらいと思うような小説は、認識できるものにだけ記述が存在する。逆に、これはすごいと思うような小説は、そのほかのさりげない記述に「キー」が仕込んであり、色々なものを釣り上げることができる。要するに、人間はある程度認識外の情報が無いときに狭い、薄っぺらいと感じるのだ。私が本にあってWEBに無いものはそこだと思う。コアな論点以外の情報が足りないのだ。WEBを読んで満足するような、場合は非常に少ない。それは、枝や幹はしっかりしていても、情報の葉が足りないと感じるからだ。そういう意味で私は、本を読まないではいられない。

認識論によるデザイン理論

一度理論化してみよう。認識は、コアの認識できる部分の情報が1〜3割、そのほかの周辺の認識できない情報が9〜7割存在するときに、最も安定しているように思える。現在の日本の都市部の状況は、認識できる部分が7割、できない部分が3割くらいだろうか。これではバランスが悪く、落ち着かないし、疲れる。

人々がWEB広告を嫌うのは、そのような面もあるのだろう。広告は認識してもらわなくてはいけない。しかし、認識される情報が多くなりすぎると、そこは居心地が悪くなってしまう。デザインに合わせた広告では、目立たない。目的が交差しない。そのため、嫌われる。

情報社会と言われまわりに情報はあふれているが、ディスプレイに表示できる情報(認識できないもの)は少ない。大体ディスプレイは表示して認識させるためのものだ。だからこそ、勘違いをしていたのだろう。情報が多すぎるのではなく、情報が少なすぎるのだ。文字情報は、コアな認識させるものだ。絵もまた同じ。そこにはそれ以上の情報は無い。肌触りや本のにおいや、日焼けした紙や、曲がったしおりは存在しない。あるのは、コアな情報のみ。だから、疲れるのだろう。情報が多すぎるのではなく、認識情報と非認識情報の割合が、偏っているために落ち着かないのだ。

情報を心地よく表示できる媒体があれば、もっとやさしい情報社会になるのかもしれない。

*1:デザインはそんなにくわしくないけどね