生態系の資源の豊富さと強さ

資源の豊富な赤道沿いの文明は、資源の豊富でない文明に敗れた

最近は系を豊かに強くする条件を考えている。何が、その系を豊かにし、何が強くするのだろうか?

最初は、「資源の豊富さ=系の強さ」だと考えたが、どうもそれだと実際の現実に一致しない。地球環境で言えば、一番太陽資源が豊富な赤道の直下は、生態系的には非常に豊富だ。しかし、その生態系が他の生態系に比べて強いかと言われれば、ぜんぜんそうでもない。豊富な資源があり、外敵の無い系は、当然ではあるが免疫系が発達しないようなのだ。ジャングルを破壊しても、オーム(ナウシカ)は出てこないし、ただただ破壊されるのみだ。人間の行動速度が系の変化に対してあまりにも早いために、生態系が人間に対して免疫を持つ前に人間が破壊してしまうようなのだ。まぁ、実際地球上のどの系でも、人間に対抗できるような免疫系を獲得した生態圏はないが。

また、文明を見ていくと、今地球上を事実上征服したのは、ヨーロッパ文明であるが、そこは緯度が高くそれほど資源が豊富ではないのだ。だからこそ、常に争い、お互いにお互いを磨きあい、世界を征服するぐらいの強い形質を獲得したのだろう。一方、資源が豊富すぎる、赤道直下では人間が食べていくだけの豊富な資源があったので、文明という武器を進歩させる理由が無かった。だから、長い時間をかけても、ヨーロッパ文明圏に対抗できるような、免疫を獲得できなかった。

人間で見ればもっと分かりやすい。小さいころから、甘やかされた人が大人になったらどうなるのかは、火を見るよりも明らかだ。その一方、自己研鑽を重ねた人が、甘やかされた人に比べてどうなるのかも、また明らかだ。

何が、その両者を分かつのか。

系の生存競争と戦略

系は、免疫と自己修復力を持つ。また、他の系を攻撃することもできるし、協力関係、共生関係など豊富な形態をとることができる。例えば動物は、単細胞は、協力、共生関係を経て、全体を統率、監視するための神経系、さらに免疫系、大きなサイズを支えるための骨格、そして一貫した命令形の脳を獲得した。人間は、さらにその命令系を発達させ、その中に新しい精神の系を作ってしまった。同時に、精神系で流れる情報を外部の協力系に伝えるための「言葉」を獲得する。さらにそれを外的物質に記録する「文字」を獲得。人間という系が、文化的に情報を共有、蓄積できるようになり、さらに発展、発達するようになった。

なぜ、そのようなものを獲得するに至ったのか?それは、外敵があり、内部でも競争があったからだ。必要だったから獲得した。同じ年月を経ても、必要でない系は、そのような特質を獲得していない。人間は、地球という生態圏での覇権をそのようにしてとった。いまや、外部に蓄積された情報と石器から続く、加工技術の発展、さらに統率された組織化によって、人間という系にかなう系は無くなった。外敵からの脅威による絶滅の危機は無くなったはずだった。

だが人間は、精神系の発達よる意識の出現や、同質の個体に対する仲間意識というものが、それほど広くないために(そんなに広い動物はいないし、同属でも資源の取り合いは地球の動物でも存在する)同属同士での戦いが、ほとんどを占めるようになった。共産主義は乱暴に言えば「そんなことしないでみんなで分け合え」という考えであり、資本主義は「戦って強い方が正義であり、そちらの方が発展性がある」という考えであった。生存を脅かすというものが、進歩のための第一の条件であったために、前者は進歩をせずに後者の前に崩れ落ちた。

インターネットと共産主義の違い

一方で、「インターネット」は、一見して情報を共有し、あらゆるものがフラットになってしまうために「共産」主義であるように見える。だが、それは競争を前提とした共有であり、競争を排除した共産主義とは異質のものである。競争が無いということは、進歩が無いという事だ。進歩が無いということは、衰退、滅亡しか残っていない。そういう意味で戦争はなくならないのかも知れない。戦争が無くなったとしても、それはレイヤーを他の場所に移しただけなのだ、大体自分たちの生態活動の元「食べる」ということ自体、有る系が他の系を食べるという行為であり、管理化された戦いの省略というように見ることができる。昔ならば、食べるということは、生存競争であり、食べるということは勝利を意味した。

戦争は、国という系同士の、戦い、食べあいだ。戦争が無くなるということはすなわち、今の「食べる」ように管理化され、シナリオの決まりきった「食べる」という行為が残るだけである。今でも大国は合法的に、小国を食べている。それが当たり前だが気に食わない小国が、レイヤーを落として物理的な戦いを挑むのだ。狂牛病もそのような構図で見ることができるかも知れない。牛が、人間に食べられにくいという形質を獲得したと考えることができる。

民主主義がなぜこれほどに発展したか?それは、権力者に敵を作ったからだ。権力者は常に民意によって、競争相手と競争をしている。権威機関(立法、裁判、警察)はお互いにお互いを監視するようなシステムとなっており、全ての権威が権威同士で競争をしている。だからこそ、健全な競争が生まれ、独裁政権より、生態系のようにバランスを保てるのだ。ネットとマスメディアと権威も同じような三角関係を、持つようになってきている。

競争をしない状態、つまり「平和」と呼ぶものは、戦力がつりあっての小休止か、圧倒的なバランスの偏りから来る平定に過ぎない。「生きる」ということ自体、もともと戦って獲得するものなのだから、戦うなというのは、「緩やかに死ね」というのと同じだ。一方バランスが崩れて戦いが激化しすぎると、それもまた、衰退に向かうというのも正しい。その状態こそが、国同士言えばで「戦争(総力戦)」というのだが。

「競争」の問題?

問題は「競争」そのものではなく、程度問題というのは明らかだ。また資源の確保が保証できなければ、戦っても得るものが無い。戦いは目的ではなく、手段である。資源を保有する手段を確保し無ければ、戦う意味が失われてしまう。そのような手段であらゆる法は、犯罪行為と決めた行為を、禁じた。世界で戦争をやめるのは、非常に簡単だ。世界中が束になってもかなわない戦力的な裏づけを持った組織が、戦争行為を違法として、見合わないであろう罰を作り、あらゆる組織に認めさせることだ。国際連盟はそれに近いことをしようとしたが、結局内部で権力を持っているものが、それ自体の権力者である為に進まない。

権利者に、その権利は不当(ずるい)だから、放棄しろといっても、無駄なのは明らかだ。それは、その系が長い時間をかけて手に入れた手段であり、権利であるから、よほどいい条件が無い限り放棄するような種類のものではない。あらゆる種類の権利、権威、権力が同じ構造であり、より上位の構造を変えない限り、一番安定した場所に居座り続ける。

それを、「ずるい」または他の手段による、非難により、権威の崩壊を狙うことは、一種の政治的な駆け引きでしかない。それが、いかに種族の系全体にとって、発展を妨げ、あらゆる種類の害悪がそこから生まれたように見せかけ、感情に訴え写る画を使い権威を崩壊させようという側と、古来から続いた権威の歴史とそれのメリットが有る者たちの生存競争に過ぎない。勝とうが負けようが、正しいか正しくなかろうが、それはそのような手段での競争によって、生存競争を行っているというだけに過ぎない。

競争と協力

一見、逆の行為に見える「競争」と「協力」も、戦略的な取引によるいかに生き残るかということに過ぎない。協力というのは、外部に敵がいるために、それより優位に立つための手段だ。「競争が悪であり、協力が善である」というような主張は、ただの感情に訴える戦略だ。マスメディアは、この感情を使って「影響を思い通り」にするのがその手段である。インターネットは、ただの手段であり、マスメディア自身にも開かれているにもかかわらず、それを敵視し、(長期的に見ると)無駄な抵抗をしているように見えるのは、情報を伝達する「神経系」の役割を電気的ネットワークに譲りたくないからだ。

「神経系」は、系にとって命綱であり、それが外部組織に篭絡されれば、当然だがその系は滅びる。そういう意味で、技術的に信頼性の高い分散型電気的ネットワークに、社会組織的トップダウン型ネットワークが伝達速度や信頼性で劣るのは、明らかである。今後はマスメディアは、神経系の役割を失い、外部又は内部感覚器官として働くことになるだろう。そうすると、明らかに前よりは分け前は減るだろうと考えられる。

検索システムは外部資本に占有されており、それを国独自の権利として保護しようというのは、有る意味国として当然だろう。中国もしかり、そして日本でも(うまくいくとは思えないが)独自の検索エンジンの開発をしようとしている。しかし、あまりうまくいかないだろう。独自検索エンジンの問題というか、官営公共事業の問題点は、そこに競争原理が働かないことだ。それは当然市場では弱いものとなり、失敗に終わる。失敗を恐れて、結果として失敗するような事業に金をかけるのはやめるべきだ。まだ、成功したものに賞金をつける方がましだと思うのだが・・・。まぁ、そうだとしても今からでは劇的な巻き返しは、相当難しいと思うが。

人としての今後を生きるための戦略

インターネットの出現による、人間という種族全体の神経系の更新と、グローバル化という地理的格差の解消によって、どのような世界が生まれるかというと、更なる競争の激化だ。これは、国ごと鎖国すれば回避できるような種類の変化ではない。そのようにすれば、競争を拒否して地理的な防波堤によって、守られているだけで、それが崩壊すれば同時にすべてが崩壊する。そのような道は、「国」として見たときに、どう見ても懸命ではない。

よって、対外的に今まで閉じていた政策をこれから開いていくことになる。国内は、強い競争晒され、以前の方がよかったというものが多くでるだろうが、今はそのようなことをやる資源が無いのだから仕方ない。国同士の競争に負けてしまえば、何もかもがなくなってしまう以上、未来を無視して、現在を遊ぼうとすればそれは滅亡を意味する。国は普遍ではなく、組織は普遍的に生まれれば、滅びるものだからだ。食べるために競争をやめれば、死んでしまうのは当たり前だろう。

日本はそれでも、まだぜんぜん恵まれている。お金がないといっても、あるし、信用もある。技術もそこそこあるし、あとは人的資源の低下と閉鎖環境での競争への不慣れだろう。人的資源の低下は、結構致命的ではある。技術的な解決(汎用人口知能、ロボット)は、まだできていないし、できたらできたで独占できる訳でも無いので、同じことだ。結局、人的資源が割りとすべてであるにもかかわらず、教育的な指針もうまくいっているとは言いがたい(世界的に見てまだ上位だとしても)。

日本の教育と文化

だからこそ、(そこまで考えていないにしても)学校外の教育に親は力を入れるし、受験戦争も相変わらず存在する。この競争を緩やかにする「ゆとり教育」というものが、失敗したというのは、当然のように見える。受験戦争が、危ういと自分が思うのは、その競争の激化ではなく、価値観の単一化である。最近では別の方向での評価がわずかに存在するとはいえ、受験での価値観は単一(点数)だ。そしてその価値観が、ただの手段であることを忘れ、全てだと信じる親が多いように感じる。別に点数は高くていいが、学業(点数)のみの評価では、今の世界は生きていけない。日本の文化的に不利だと思う点は、多様な価値観を認めないというような傾向だ。

価値観の多様性こそが、文化的豊かさであり、創造するための、基礎的なブロックとなる。日本ではずっと組織的歯車としての人を企業は望んで来たが、今になって表向きは、創造性というものを重視しているように見える。しかし、創造性という価値観自体が、日本の文化的になじまないのは、皮肉だ。日本の教育で、間違ったのは多様な価値観を認めなかったことであり、統一した教育方法を上から押し付けてきたという手法だ。個性的な人を育てると言いながら、先生には個性を認めない。なんとも矛盾している。創造性の発揮できない先生、授業で、生徒の創造性が育つと本気で考えているのだろうか?

日本においての創造性

おそらく今の世代では、その評価というもの事態が、あいまいであるため(評価者自身が、創造性を育てていないため)あくまでも表向きの宣伝文句に近いものがあるが、時間がそれは解決してくれる。新しくできる企業は、新しい価値観を取り入れ、より競争力の強い組織を作り出す。古い組織と競争するためには、今までの価値観での組織では戦えなくなっていく、そのために価値観の更新が今行われている。更新できなかった組織は、戦いに敗れ死んでいく。

新しい価値観が普遍的になったころ、古い組織で育った人は、新しい世界で戦うことができない。新しい世界で10年戦ってきた人と、今までの古い体質での10年では、おそらく戦いにならない。また、会社が人的資源の保証をしてくれなくなっている以上、会社に全て頼ってしまうのは、間違いだ。資源をいかに自分自身に蓄え、労働市場での価値を高めることが必要となる。専門的知識だけではなく、汎用知識も要る。または誰も手を出していない、相乗効果を発揮するであろう専門知識の組み合わせを学ぶのもいいだろう。

戦略ではなく、思想であり対外的な姿勢

だが、それは端的な戦略でしかない。もっと大事なのは、現状把握であり、外部を観察し、現状を正しくフィードバックできる目であり、それを決断し、実行できる賢さだ。いかに能力を持っていようとも、現状把握が失敗すれば、実行結果も間違いなく失敗する。現状を妄想ではなく、少なくとも客観的に見るためには、比較のために外部組織、世界を知る必要が有る。その手段としては、インターネット、本、話し合い、旅行などありとあらゆる情報が有る。主観的な意図を除いた現状把握は、難しい。常に意識は自分を「正しい」と思いたいし、見栄も妄想も願望も認識には投影される。それを除くためには、多くの人と知り合い、話し合い、この世界がどのように見えるかを理解することだ。他人の理解は自分の理解と同質のものである。

そのために多くの世界に出かけ、好奇心を持って他の人と話し合うことだ。好奇心こそが、外部観察の基本となるものであり、自分の世界を広げる目であり、真実を探し当てる資質の源となるものだ。大人になればなるほど、自分の領域を決めてしまい、知識的守りに入ってしまうことが多い。新しいことを、はじめようとせず、新しいことを批判しだすようになる。私はそのようになりたくは無い。いつまでも、好奇心を強めていけるように生きていたいと思う。

参考

分裂勘違い君劇場 - 社員全員がホワイトカラーエグゼンプションの会社で働いてたことがあります

造物主(ライフメーカー)の選択 (創元SF文庫)

造物主(ライフメーカー)の選択 (創元SF文庫)

「ライフメーカーの掟」の続編。いやぁ、おもしろかった。