作るということと生きるということ。そして私の拡大。

何か年一回ぐらいの、波が今年も来ているけど。

作るということ

作るとは何だろう。どんな欲求だろう。
私は作りたい欲求がある。それはものすごく昔から、ずっとある。暇があったら作りたいし、作るということが何よりも楽しい。でも作りたく無い人もいる。消費するだけで満足する人もいる。私は、それだけじゃつまらないのになぁと思うが、個人の自由なのでどうともしないけど。この作りたいという欲求は、何なのだろうか?なぜ私は作りたがる?2週間ばかり考えていた。

ようやく答えが見つかった。「作る」ということは「生きる」ということそのものだからだ。私は「生きたい」だから「作りたい」。簡単な話だった。まず、生きるの逆には死が有る。死ぬということは、有機的複雑体と精神的複雑体という価値を失うということだ。この世界には熱力学第二法則によって、全てのものが価値の無い状態つまり死を迎える。それに逆らって、レイヤーを重ねつつ複雑な相関図を作っていくのが生きるという方向だ。死神は熱力学第二法則で、全ての生き物はそれに追われている。

生きるということ

生きるということは、ミクロで全ての細胞が自分を作ることによって維持されている状態だ。死ぬというのは、エントロピーが増えすぎて、作るのが追いつかなくなるのが死だ。自身を作らなくなると、総体は死を迎える。

なぜ、発展途上国に比べて先進国が、「生」に行き詰ってしまうのか。リソースが足りなくなるのではなく、逆にたくさん有るのに、いや有るからこそそこには作る意味が失われてしまう。生きる意味が失われてしまう。実際には隠されているだけで、見えにくくなっているだけだけど、みんな勘違いをしてしまう。死ぬことを忘れ、偽りの永遠を手に入れてしまう。つまり、エントロピーが増えすぎて、自身を再構築するのが追いつかなくなる。つまり死。

実際は国が死ぬのは、早々に起きることではないが、衰弱は確かに有る。ダイエットが美しいと思って、やせ過ぎた見たいな状態だ。生命力を取り戻すには簡単なのだが、国レベルだとなかなか実際には厳しい。つまり、偽りの永遠を剥がして、むき出しの死と生を突きつければいい。生存競争は、分かりやすく単純だが、高度化すると、それを忘れてしまう。

私という「枠」の拡大

ネットワークの密化により、ますます情報が受け渡す帯域が増えた。これで個を失うとか、個を得るとか考えていたけど、答えは簡単だった。個が拡大するだ。「私」は拡大する。より、上位のレイヤーを築き、世界の真理を解き明かし、より自身を拡大させる。これが生きるという方向であり、死神から逃げる唯一の手段だ。

私は、生き、そして作る。それは、全く同等の事柄であり、このブログを書くということも含めて、全て生きる方向、私の拡大する方向に向かっている。私の細胞も精神も、常に生を選択する。それは、常なる選択であり、死は常に隣り合わせに有る。死ぬことを理解することが、生きるということにコントラストを与え、永遠など無いのだから選択をすることを突きつけるのだ。私は生きて作る。