じゃあ、その世界を変えてみよう
創造性と日本
一方で、アメリカには、「世界の根本原理を書き換える」というのは、勇気ある行為で、わくわくするような行為だと考える人々がけっこういます。
世界そのものに、挑戦状をたたきつけるとは、大したヤツです。
絶対的な神に反旗を翻し、山のようにそびえる巨大な神を殺害し、神の血のしたたる剣をひっさげた、黒衣のイケメンのアンチヒーローです。
そのために、大企業や大学での地位をなげうって、トンデモないソフトウェア構想に参画するとは、イケてるカッコイイやつです。
性別に関係なく、男らしいです。マッチョです。
どんなにシビアに計算しても、どうなるかさっぱり分からないリスキーなソフトウェア構想に、札束をポンと放り投げるのは、イケてる投資家です。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070226/1172462591
日本には、どう(how)作るのかはいくらでも出来ても、何(what)を作るのが苦手だ。今までは2番手だったとしても、1番手よりいいものを作れば挽回が出来た。でも、これからの世界は違う。誰もが、何でも作れる。問題は何を作るかだ。日本は、悲しいぐらいに「これ」というものを作ってこなかった。多様性を持たず、一様性を望んだ。だからこうなった。
私という枠
さて、では考えよう。日本では「一様」である事が望まれる。この不文律の空気こそが、列島を多い、多様性の芽を摘んでいる。なぜ冒険をしないのか、それはこの「空気」によるインセンティブと禁止事項のためだ。何のために、これは存在するのかそれは人間が生きるために感情、感覚が必要な様に、個のフィードバックを全体にするためだ。そしてそれは、生きるために必要だから存在する。逆に言えば生き残ったのは必要な感情、感覚を持っていたからだ。
私たちが感情と感覚を持っているのは、それを持っていることで生きるという方向を向かいやすくするためのインセンティブと禁止事項だからだ。同じように、社会もまたそれを持っている。経済的なインセンティブと法律的な禁止事項。全てはより生きるために必要だから存在する。
私たちは感情を選択できる
私たちは、選択をする事が出来る。例えば、お茶を店員にこぼされても、怒りを持たない事は選択可能だ。私たちの反応は選択できる。ただし、心理的な成熟とメタ的な視点が必要となるが。私たちは心理的な感情つまり、インセンティブを自分で変えることが出来る。
同様に社会も同じ仕組みを持っている。自分で自分たちの法律を変えることが出来る。これは、人間で言えば、どう思うか、同感じるかを変えられるということなのだ。この仕組みを使えれば、話は早いのだが、そう簡単にはいかない。既得権益を持っているものは、変わる事は望まない。それは、人間の頑固な人間の意見を180度回転させるような事だ。うん、無理。よほど強硬な手段を用いないと、この仕組みの解体は難しい。
だから今回はボトムアップしか使えない。そして、ボトムアップはまた、多様性を生む土壌でも有る。
そう、答えは簡単な話だった。新しく個の中に個を創造すればいい。枠をさらに作って、新しく感情を定義しよう。前の世代の良いところを受け継ぎ、悪いところを捨てよう。社会的な子供を創ろう。空気よりも多様性と創造を価値有るものと認められる社会にしよう。有る程度成長して、親離れできるようになったら・・・その時は、両者の戦いとなるだろうけど。
若い世代は、古い世代を超えるために存在する。シリコンバレーじゃなくていい、シリコンエッグで十分だ。可能性の卵を作ることとしよう。