世界の広がり

私が作りたいものは、「世界そのもの」とか、「世界の再解釈による新しい世界」のようだ。ようだと言われても、困るだろうが、とにかくそうなのだ。

なので、段階として、世界そのものの解釈ということなのだが、自分としては途中とは言え「我ながらうまくいった」というような気持ちでいた。勘のレベルとはいえ、モデルが簡単になる方向というのは、比較すると正しいのは、ほぼ間違いないからだ。

それを崩されたのが、上のグレッグイーガンの本。人と対話するより、本と対話する方が、効率的だと思ってしまってはイカンと思うのですが、だんだん既存の価値観郡から離れた価値観郡を持つにつれて、それを説明するコストの方が高くなるばかりです。どうにかならないだろうか?

世界の解釈

私の持つ価値観と思考郡は、主に「生きる、創る、構築する」という価値観の元に構成されたものである。これは、成長するという価値観、生きるという価値観、経済活動するという価値観において*1沿っているため、それが正解であると考えてしまったが、技術の進歩は可能である範囲を広げるのだ。解釈するということは、メタ解釈をすることができるようになるのだ。

つまり、私の価値観郡の上にも、捻じ曲がった*2価値観を構築することが可能なのだ。しかし、正しさというもの、価値観というものは、現在の自分の視点で見てということでしかない。これは言い換えると、私と違う価値観の人も、私の思考郡を道具として使うことで、その価値観に沿ったプロダクトを得ることができるということだ。

論理的に正しいということは、メタ論理からみて正しいとは限らないのだ。

考えられる可能性は、3つある。価値のメタ価値と、生きるという価値、人間という構造物の解釈だ。

価値の価値

価値とは、以前生きるという方向を進むのに便利な手段方向の重み付けであるという風に解釈した。ベタの価値観としてそれは、間違えていないと思うが、メタの価値観ではどうなのだろうか?

途中

*1:つまり常識的な範囲で建設的

*2:これは常識的に見ると