グラウンドゼロ::価値観の再構築

外からの視点

全ては空(くう)だ。全ては無価値、無意味だ。私はただの、素粒子の構成対であり、それは宇宙のあらゆる物質と同等の存在だ。私は、生きて考えていると思っているが、それ自体に意味はなく、感情はただのフィードバックシステムであり、神経細胞の火花が私の行動を決める。恐ろしいほどに、世界は空だ。

というような事を、一日16時間労働×3週間(間休み1日)やっていたら、思えて思えてしょうがなくなった。といっても、鬱になったわけではなく、ただ疲労、摩擦による消耗でそうなった。だからといって、たちの悪い事に論理的に間違っていない。ただみんな忘れていられるだけで、死ぬ事を毎日突きつけられるようなものだ。オブジェクト型思考を思いついた結論として、そう考えてしまうのはあまりにあまりだった。全ての物事をやっているときに、連想がそちらに向かってしまう。しかもそれがどうしようもなく正しく、受け入れる他無い。

人という存在

人間という存在が、全く特別なものではなく、ただの素粒子、原子、分子、細胞のあつまりであるということ。太陽が地動説によって、ただの一恒星として成り下がったように、人間もまた、ただの粒子の集まりであると認めざるを得なくなった。魂とか生命とか思考ということに、特別な意味や価値も無く、ただの集まりの社会的干渉結果でしかないということ。その事に価値や意味や特別性が欲しいと「人が望んでいる」だけだということ。

昔襲われた虚無的な考え方の同列のように思えるが、前回(中学生くらい)は忘れただけだった。今回は性質が悪い事に、どうしようもなく論理的な正しさが見える。全ての価値観、意味、存在が無に帰した。限りない孤独を感じ、それを共有することが出来る人がいなかった。限りなく孤独だった。

自動的思考

こんなことなら、考え続けるのを止めてしまえばよかったと思ったが、自分の思考は自動的に物事の奥の奥まで見せ付ける。食事の時にも、経営的なこと、マーケティング的なこと、生産過程、流通過程、人間関係的なこと、動作しぐさのこと、食べたときの消化器官のこと、化学反応のこと、消化された分子構造のこと、原子構造のことなどありとあらゆることが、勝手に立ち上がってくる。そして、全てを見直した後に残っているのが、「空」である。恐ろしい。怖い。

自分が死ぬとかよりも、恐ろしい事だ。全てが無価値であり、無意味であるということ。これを正面から受け止めて考えられるだろうか。回避行動とか、退行による逃避ではなく、正論としてぶち当てられたときどうすればいいのだろうか。

真の孤独

私は、落ちるところまで落ちた。淵を覗いてしまったのだ。私は、囚われた。全ての価値が無に帰って、全てが終わり、何も無くなった。私は一人になった。全ては空に帰った。

そこになってようやく気がついたのだ。私が必要とされている事に。全てのことは無価値かもしれないが、私はその事に価値を感じる。私はその事の価値を信じる。私が必要とされるならば、私はそこで限りなく意味は無くとも、価値を作ろう、価値を繋ごう。私自身に、私の人生に意味は無くても、私の作ったものが、私の与えられたものが他の人にとって価値が有るのならば、私はそれを喜び、その感情に価値を感じ、信じよう。価値や意味が、元から有るものではなく、作ったもので有るということに気がついた。

「信じる」こと

そう、価値や意味は信じるという事なのだ。それは、思考停止なのかもしれない、矛盾なのかもしれない。それでも信じる事を私は信じるのだ。私にはそれしか出来ない。私は、価値や意味を信じる。素粒子や原子、分子を信じる。全てのオブジェクトを信じる。私は人間を信じる。私は私を信じる。

全ては空であり、私は全てを信じる。