信じる事は、認識の選択

世界の形

私たちは、何も無い認識空間の接続された認識圏であり価値圏に生きている。一見なんでもないことのようだが、私たちが価値を作ったのであり、そしてその価値であり認識を信じている。私たちは、私たち自身に意味があり、価値があると思いたい存在では有るが、意味も価値も特別な存在でもない。まだ、科学的に解明されていないからといって、そこにルールを覆すような特別ルールは存在しない。

私たちの歴史は、常にそうだった。神の作られた特別な存在から全ての中心から、太陽系の第三惑星に落ち着き、銀河系の端辺りにおちつき、人種の存在はただの遺伝子の違いであり、霊の存在は見つからず、ただの遺伝子の媒体となり、情報の媒体になった。そして、人間が特別な存在でなく、ただのそこらへんの石と変わらない存在である事を私は知っている。価値というものが全てにおいて存在しない事を知っている。

認識と選択と力

それを知った上で私は認識を選択するのだ。全ての事に価値が有ると。価値というものは私たちがその存在を信じているから存在するということを。私たちの社会の間で、日本銀行券は価値が有ると思われている。だから、それは価値が存在すると信じられている。そしてそれは信じられてる故に、力を持つ。私たちは、信じる事でそのものに価値を創造し個体を動かすだけの意味を作り出す。信じるということは、力を作っているのだ。信じるとは、認識の選択である。

原子は信じているのだろう。物理的な力を。だからこそ、世界はこのような世界のままで存在する。
私たちは信じているのだろう。経済的、政治的力を。だからこそ、世界はこの形である。

信じる事で全てが構築されている。私たちは、信じる事で現在を支え、明日を作る。私たちは、同じ価値圏のなかにいるが基本的には、情報を受け渡ししなければ、価値のパスは通らない。私は、伝える事でしか私の世界を繋ぐすべをしらない。私は、空の中に浮かぶ価値圏の中で、思うのだ「価値を信じたい」と。