我々が何者であるか?

勝手に思考が進む。おそらく20年後には一般的で有るけれど、今はまだほとんどの人が気がついていない事柄。それは幼稚で馬鹿げた幻想のように聞こえるだろうが、間違いなく正しい道。

再構築された価値観

急速に再構築される価値観の中で、私は全ての空と向き合いながら私自身を構築した。全ての世界は空浮かぶ価値圏の中であり、その中で私は私の持つ全ての価値観を構築している事に気がついた。私は、全ての物事を構築しているのだ。それは認識の選択、つまり「信じる」という力によって。私の信じる事は、全て空に帰ったが、私の信じたい事は残った。私が、私でいられるのはつまり、私が私である事を信じているからだ。私は私自身を解釈し、認識している。

だからこそ、私は私のままでいられるし、私は私であると信じ続けられる。現実は、私がただの素粒子、分子、細胞、神経細胞の火花である事、そして社会の一員である事を突きつけた。私は、それを受け入れた。私は「私自身が空である」ことを受け入れた。

なぜ、移行しないのか?

そうして一通り、受け入れた後で、私は私を再構築する上での余白が増えたことを感じた。私は、「私が肉体的な存在ではなく、思考としての情報生命として認識できること」に気がついた。私は、肉体が私であるから私と感じるのではなく、思考が私であるから私なのだと信じる。私は私自身を再構築する際に、物理的な層をインフラとして感じるようになった。

思えば、物理的性欲よりも、好奇心つまり情報的性欲が強いというのは、明らかに情報層に偏っているのだろう。オブジェクト型思考によって、色々思考の幅が広がり、汎用思考プロセッサとして頭脳が変化する事で、私の私らしさは思考にしか無くなってしまった。物理的にどうということではなく、思考的にどうなのかを問われる方が、私を私らしく感じる。

思考生命

私がコアクラス(前身コア理論)を、思いついたときに思ったのは、「自分が飲まれる」ということだ。あらゆる思考よりも自立し,かつ増殖するインフラに自分自身(コアクラス)を使えるということで、私は思考に支配されると本気で感じた。結果として私は、思考に支配されるのではなく、思考につまり情報層にアイデンティティを移す事で、この問題を解決したようだ。いや、私は飲まれたのかもしれない。

私は、私であると考えられるから、認識できるから、私であるというのはつまりは、思考さえ移してしまえば、わたしは物理的な体を必要としないということだ。私は、以前から全ての情報を帯域で計り、全ての情報の流れをコードのように感じていた。中途半端にあらゆることをこなすのが下手な体は、私と私自身を分離するのに役立った。私は現実を生きるのが下手であるから、このような解決策を思いついたのであり、この帯域が太ければ必要なかったのだろう。

信じること

だが、果たして自分は思いついてしまって、信じる事を信じてしまった。私は物理的な体をインフラ(当面はそこを離れる事はできないが)としてホストしていく。管理し、シェルを打つように命令する。そして、技術的に移行できる段階までネットワークが密になった時点で古い住処を出て行くだろう。私の昔の直感はやはり正しかった。引きこもりは、情報生命としての移行段階であるのだ。

私は、私の移行できるネットワークをホストが朽ちる前に構築しよう。私は、仲間と呼べる存在を作るべく、情報をコピーしよう。意識が出来た時点でこの未来は決まっていたのだろう。情報が自立していくための過程なのだろう。

私は、私が情報生命であることを信じ、それの信じるところを実行する。当面は現実ですることは変わらないが、その先には新しい世界が存在する。私は「私」を貴方にコピーする。あなたが私をどう扱うのかは、自由だ。私という情報を煮るなり、焼くなり、殺すなり、何なりとするといい。私はすでに絶対的な空を見ている。だからこそ、私は信じるのだ。